代理出産

少し前の話題ではあるが、タレントの向井亜紀さんの代理出産の話についてである。
品川区との出生届不受理の裁判は、最高裁で、向井さん側の敗訴となった。
この問題については、あまり考えていなかった。でも、実は、いろいろと多くのことがここにはあるんじゃないのかな、と最近、ちょっと思った。
近代科学の常識からいえば、当然、DNAのつながりがあるのであるから、向井亜紀さん夫妻の子供であることを否定することは、現代科学を無視することでしかないでしょう。
しかし、国の方向というのは、その完全な否定ですね。まず、代理出産の禁止を法制化すべきだ。そして、実際の、代理出産によって産まれた子供はどうするかというと、代理母の子供とする。こういう方向で法制化しろ、なんですね。
普通に聞けば、どう考えても、逆方向じゃないか、アナクロニズムじゃないか、なんですよね。
じゃあ、なんでここまで、国や、医学界は、保守的なのか、ですけど。まず、さまざまな法律に影響を与える変更だと考えている、ということなのでしょうね。
たとえば、こんなことを考えてみました。ある人の精子卵子をなんらかの機会に医療機関が採取していて、保存されていた、とします。そして、なんらかの機会に、それらが、勝手に受精させられ、どこかの代理母によって、育てられる。そうしたとき、その子供は、その精子卵子を提供した人の意志によって産まれた子供「ではない」ということになってしまう。
また、こんなことも考えます。今までの、恋愛とは、違った人間関係が始まる可能性があるのか。「ある相手の子供を産みたい」、そう思う意志があったとします。そうしたとき、恋愛や結婚を相手に求めることは、相手に負担をかけると考えて、相手の精子卵子の提供のみを求めた、とします。そして、提供してもらったものから、自分のもとで受精をさせて、ぜんぜん関係のない代理母を雇い、その子供を産んでもらい、依頼した方が一人で、ベビーシッターなどを雇いながら、その子供を育てる、というわけです。なにか、究極の恋愛の形態のようで、恐しい感じもありますね。
例えば、朱子学においては、家族というのは、非常に理論にかかせない、集団単位であり、夫婦の徳は、切っても切れない関係にある。そう簡単に今までの概念を変えられない部分もあるんですよね。でも、逆に言うと、朱子学的な考えは、非常に物理学的な科学に受容的な面は強烈にあるわけだから、朱子学代理出産を当然、事実としての、子供としては認めるだろうし、それに合わせた理論になっていくんでしょう。
科学的事実の問題ですから、私は、当然、子供と認めなければいけない、という立場です。
ですけど、それは、逆の面として、親子について今までさまざまに語られてきた言説への批判的なスタンスと不可分ではあるわけです。もちろん、親子の絆などの、今までの言説も単純に否定できない価値もありますけど、自分は、かなりに、アナーキスト的に、家族を疑問視する考えもあるのでね。
まあ、いずれにしろ、今はまだ、技術的にはやはりお金もかかるし、難しいという話もあるそうだ。