谷崎潤一郎『春琴抄』

谷崎文学といえば、『痴人の愛』であると私は思っている。
ただ、この作品、春琴抄も、短かい内容であるが、不思議な感覚になる。
はるか昔に読んだだけだったが、思うところがあって、ちょっと読んでみた。
私が昔から思っていたことは、ノーベル文学賞をとったのは、川端康成だったが、どう考えても、これは、欧米人のオリエンタリズムでしかないでしょう。でも、もし 選ばれていたのが、谷崎潤一郎であったら、この春琴抄であったら、どれだけ違っていたであろうか。
この作品を久しぶりに読んでまず思ったのは、このリアリズムである。それはどういったリアリズムなのか。たしかに、あとがきにあるように、心理を描くような性格のものではない。しかし、ある種、著者のこの物語る視線はリアルだ。それが、逆に迫力を与えている。
9歳のときに失明した、薬種商、鵙屋の娘の春琴は、三味線の腕は、群を抜くものがあった。鵙屋の丁稚の中の一人として働いていた佐助は、たんにおとなしいからという理由で、彼女のお手引きをやっていた。佐助は、隠れて三味線を独習していたのだが、それを奉行先に知られ、当然、丁稚の身分で取り上げられ、一生三味線を禁止されるところであったが、春琴は彼に独習した演奏をさせ、それを聞いて春琴は、彼女が師匠となり佐助を弟子として稽古をつけることを決意する。春琴11歳、佐助15歳のときである。
しかしその稽古は熾烈を極めた。

唯明白な一事は、子供がままごと遊びをする時は必ず大人の真似をするされば彼女も自分は検校に愛せられていたので嘗て己れの肉体に痛棒を喫したことはないが日頃の師匠の流儀を知り師たる者はあのようにするのが本来であると幼心に合点して、遊戯の際に早くも検校の真似をするに至ったのは自然の数でありそれが昂じて習い性となったのであろう。

とうさんまあ何という事でんの姫御前のあられもない男の児にえらいことしやはりまんねんなあと止めだてでもすると春琴は却って粛然と襟を正してあんた等知ッたこッちゃない放ッといてと居丈高になって云ったわてほんまに教せてやってるねんで、遊びごッっちゃないねん佐助のためを思やこそ一生懸命になってるねんどれくらい怒ったかていじめたかて稽古は稽古やないかいな、あんた等知らんのか。これを春琴伝は記して汝等妾を少女と侮り敢て芸道の神聖を冒さんとするや、たとい幼少なりとて苟くも人に教うる以上師たる者には師の道あり、妾が佐助に技を授くるは素より一時の児戯にあらず、佐助は生来音曲を好めども丁稚の身として立派なる検校にも就く能わず独習するが不憫さに、未熟ながらも妾が代りに師匠となり如何にもして彼が望みを達せしめんと欲する也、汝等が知る所に非ず疾く此の場を去るべしと毅然として云い放ちければ、聞く者その威容に怖れ弁舌に驚きほうほうの体にて引き退るを常としたりきと云っている

この異様な世界。
現代なら、子供は義務教育を受けている頃である。うーん。
「道」ですよ。商いの道であり、京都、仁斎の伝統ですかね。
谷崎がずっとこだわり続けたのは、マゾキズムなのであろう。
春琴が38歳のとき、彼女を恨む者の仕業により彼女は熱湯で顔に大やけどをおう。佐助はその時、自ら針を自分の目にさし、めしいになる。以下は、最後の春琴が亡くなった後の佐助の述懐である。

誰しも眼が潰れることは不仕合せだと思うであろうが自分は盲目になってからそう云う感情を味わったことがない寧ろ反対に此の世が極楽浄土にでもなったように思われお師匠様と唯二人生きながら蓮の台の上に住んでいるような心地がした、それと云うのが眼が潰れると眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくるお師匠様のお顔なぞもその美しさが沁々と見えてきたのは目しいになってからであるその外手足の柔かさ肌のつやつやしさお声の綺麗さもほんとうによく分るようになり眼あきの時分にこんなに迄と感じなかったのがどうしてだろうかと不思議に思われた取り分け自分はお師匠様の三味線の妙音を、失明の後に始めて味到したいつもお師匠様は斯道の天才であられると口では云っていたものの漸くその真価が分り自分の技倆の未熟さに比べて余りにも懸隔があり過ぎるのに驚き今迄それを悟らなかったのは何と云う勿体ないことかと自分の愚かさが省みられた

春琴抄 (新潮文庫)

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