高橋敏『国定忠治』

国定忠治がどういった人物であったのか、どういった意味で、重要な人物なのかを考えている人は、今では少ないようである。

博徒がお上の手先となって十手をあずかる「二足草鞋」を嫌悪し、お上に徹底抗戦した忠次は、豊かさを追い求め、ぬくぬくと一億総中流の幻想に酔った戦後50年、歓迎されざる、思い起したくない人物となった。激動の幕末をやりすごし、お上との調和に努め、ハッピーエンドの生涯をまっとうした博徒清水次郎長こと山本長五郎が受け入れられたのとは対照的である。

たのむから、清水の次郎長なんていう、小者と、国定忠治を比べないでくれ、ということだ。全然、全然、「モノ」が違うのだ。

忠次は、大前田栄五郎と縄張りを二分し、賭場のあがりを徴収した。そして時には縄張りを出て、他所の賭場を荒らすこともあった。しかし、無宿の博徒の世界における約束事に対する忠次の姿勢は峻厳そのものであった。裏を返せば有宿の堅気に対しては温和そのものであった。博徒たるもの堅気の衆から一物たりとも物を取ることを許さなかった。また堅気の子弟が一存で子分になりたいなどと来てもこれを聴すことはなかった。父兄が来てどうしてもと頼まれれば受け容れたが、賭場にはいることは許さず、嫌がりそうな雑役に一日中こき使った。辛さに我慢できなくなって家に帰りたいと申し出ると、わかりやすくていねいに訓誨を加え、どうだわかったろう、桑を植え、蚕を育て真面目に百姓をやれとやさしく諭して家に返した。

忠次がいるだけで、コソ泥や空き巣狙いの類まで姿を消す治安の良さ。無宿の博徒が仕切る盗区が、どの領主の支配と比べてもより安全な地帯だったのである。この事態に土地の人々は忠次を父のごとく畏敬し、赤城山に足を向けては寝られないほどであったという。

実際、当時は、天保の飢饉の時期で、このとき、お国はまったく庶民を見殺しにするだけだったその中で、飢えや寒さにこごえる村人に、さまざまに援助し、実際に、福祉を提供したのは、忠次たちだったという。

権藤といって思い出すのは、日本映画至上幻の名作とたたえられる山中貞雄の「国定忠次」(

山中貞雄作品集〈全1巻〉

山中貞雄作品集〈全1巻〉

)。十手をあずかるあこぎな売女屋山形屋藤蔵。上州を追われ、薬売りに扮して信州へ逃げた忠次は、とある宿場で越後から来た百姓の父娘(左兵衛・おみつ)に出会う。年貢が詰まって借金の山。やむなく娘を藤蔵に売ってつくった50両。藤蔵は、帰りを急ぐ老父左兵衛を子分に送らせると見せて、家族の命のかかった血の出るような50両を奪い取る。奸計を知った忠次は、藤蔵の陣取る宿に左兵衛を連れて乗りこみ、薬を50両で買って欲しいと意味ありげに頼む。忠次と気づかぬ藤蔵は、十手捕縄で召し取ろうとする。堪忍袋の緒が切れた忠次は「上州左位郡国定忠次だ」「やい山形屋、これでも手前エ白きる気か。十手捕縄を預かりゃあ盗賊をしていいと云う掟は何時できた」と、力ずくで50両を返させ、あげく娘のおみつを見請けするからと身売り証文を火鉢に焼き捨て、おみつまで奪い返して父娘を帰国させる。

そんな忠次たちも、国の威信をかけ、殲滅されて、最後はお縄となる(この、悲劇的な最後にも、忠治一味を、水滸伝赤城山を、梁山泊、と比べたくなるような、そんな感じがありますね)。忠次の最後は、はりつけで、槍で何度も内蔵をさされて、大変な観衆の多さの中、当時の、ほんとに大きな話題となったそうだ。まさに、キリストを思わせるような、そんな吸引力をもったのでしょう。
最後は、余談なんですが、

日本精神分析 (講談社学術文庫)

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の中で、柄谷さんは、菊池寛の「入れ札」という短編小説に注目します。これは、有名な、幕府に追われて、忠次が赤城山を出るときの話です。この短編小説で、菊池寛は、忠次が逃亡の手助けとして、数いる弟子の中から、3人を選んで、一緒に出ていった、というストーリーにしています(もちろん、史実は違って、忠次、一人で山を出たわけですが)。そして、その3人は、なんと、入れ札(つまり、子分たち全員による子分たちの中からの投票)によって選ばれた、というわけなのです。
なぜ、菊池寛は、このような話を作ったのか、それも興味深いのだが、どうしても、興味は、当時、柄谷さんたちがやっていた(今どうなっているのか知らないが)、NAMとの並行性になるんですね。
国定忠治のいい面、可能性をひきついだ上で、なお、その運動をのり越えるような、アソシエーションが、たんなる一人の天才によって生まれ消えていくものでなく、だれも特段、意識することなく、維持され、実現されていくような、そういった運動......。

国定忠治 (岩波新書 新赤版 (685))

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