私は、最近、よく考えることがある。それは、「右翼」の定義についてだ。私は、左翼というのは分かりやすいと思っている。基本的に、啓蒙思想の流れにあるものと考えてそれほどはずれていない。
では、右翼というのはなんなのだろうか。
一般的なイメージとしては、民族主義者、保守主義者、国家主義者、王室主義者、暴力団、こういったものであろう。
しかし、こういったものは、少なくとも、私の最近思っている、右翼的心性の十分条件とは、考えられない。逆に、必要条件としてもあやしい、ピントがずれている面も多いと思っている。
そういった自分の感覚を、もう少し、認識としたのが、この論文である。
国家以前の社会構成体の特徴は、交換様式から見ると、互酬交換様式(A)が支配的だという点にある。そこには他の交換様式(BとC)も存在するが、それらは交換様式(A)の下で副次的なものとしてあるにすぎないのである。
民俗学や、文化人類学において、今の貨幣経済が大きく普及する以前の交換様式をみると、一言で、「互酬」と言いたくなるような、交換があらゆる側面で、存在していたように思われる。互酬、つまり、贈与と返礼が繰り返されていく現象。
互酬(相互性)をアルカイックな社会に存する支配的な原理として見出したのは、マルセル・モースである。互酬は必ず商品交換との比較において考えられる。だが、それらの差異を経済的な次元だけで見出すのは不十分である。商品交換は確かに経済的であるが、互酬交換は非経済的な次元をふくむからである。外婚制や供犠、さらに首長制などにも互酬の原理が働いている。
つまり、ここで「互酬」という言いかたで言おうとしているものは、たんに経済面にとどまらない、あらゆる人間活動において見られる「なにか」だと考えるべきだと言っているわけです。
このあたりの文化人類学的な議論は、いろいろおもしろいと思うのですが、ここではやりませんが(マルセル・モースの本
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山極寿一
によれば、インセストの禁止は、「社会学的な父親」の設定をもたらすことである。類人猿において、家族に類似するものはあるが、永続的ではない。それは固体の群に解消されてしまう。とりわけ、集団が拡大するときはそうなる。ところが、ヒトは、社会学的な父親と家族の設定によって、家族的単位集団を維持したまま、上位集団を構築することができるようになった。実質的な労働や生活は家族のレベルでなされ、上位の集団は、限られた課題のみを執行すればよい。
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インセストの禁止と外婚により家族が構造化され、それはまた、それぞれの家族間の互酬から構造化された、一つの部族となる。さらに、それぞれの部族間の互酬が、この地域の部族間秩序を形成する。しかし、この交換形式は、今ある国家や帝国のような、大規模な組織を、ついに形成することなく、関係を続けているように見える。
このような集団は、一定の規模になれば、分裂するほかない。超越的な上位がないために、まとめることができないからだ。
サーリンズはいう。まことに、贈与は、社会を団結体的な意味で組織するのではなく、ただ分節的な意味で組織するだけだといえるだろう。相互性とは「あいだ」の関係にほかならない。それは個々に分離した一群の人々を、いっそう高度な統一体に溶解するのではなくて、まったく反対に、対立を相互に関係づけることで、対立を永続化させているのである。
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だから、私の思う右翼的心性は、なかなか、そう簡単に、大きな集団を形成していくものではないんだと思うんですね。
だから、なんて言うんでしょうか、葉隠のような、主人と奉公人の関係にしても、その奉公人にしてみれば、「まったく」その上位組織の主人(この場合、徳川将軍とか、天皇)との、「同等の」関係になんてなっていないですよね。だから、奉公人にしてみれば「奉行」しているのは、その主人なんであって。じゃあ、上位組織の主人とは?、といえば、(その主人の奉行先ということなんだろうが)もう、神様くらいの縁遠い、なにか、くらいの感覚ですよね。むしろ、葉隠なんかを読むと、ほんとどうでもいいというか、それくらい眼中になくて、主人しか目に入ってない。
四書の中に『大学』ってありますけど、あれは、なんとかして、この関係を、家族から始めて、トップの国王にまで、結びつけるために、無理くり、無理くり、人工的な理屈を重ね続けるわけですね。もうなに言ってんだかわかんないくらい。そして、朱子学は、えんえんとその解釈を繰返す。
同じような問題は、吉田松陰にも言えると思いますね。彼の場合は完全な転向組ですね。徳富蘇峰に言わせれば、もう、革命家ってことになっている。それくらい、ある種、言ってた(子供の頃から心に決めてやってきた)ことと、始めたことが違う。
長州藩主、徳川幕府、への主従奉行関係を言っていたのに、海外からの外圧の中で、あっさりと、幕府打倒に向かうようになる。その説明が、天皇のかつぎ上げだとか言ってるわけだけど、なんでこれで、理屈になるのか。お前が、少し前まであれほど、長州藩主への奉行こそ、自分の人生の全てくらいに言っておきながら、なんで、こんな話になるのか。
そうやって見ていくと、どうも違うんですね。なにか、いろいろなところで、この「股裂け」のような、分裂症といいますか、ダブル・バインドのような、病的な分裂があるように思えるわけです。
クラストル
がいうようなブラジル奥地の部族間の戦争は、「外部」との戦争ではない。そのような多数の部族全体が、広い意味で一つの共同体なのであり、戦争はそれを活性化する互酬システムの一環にすぎない。
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彼らが「国家に抗する社会」(クラストル)であることは確かである。しかし、それは彼らが互いに戦争をしているからではなくて、その「外部」を拒絶しているからである。しかも、そうすることができたのは、たんに「外部」が侵入してこなかったからだ。
こういった視点に立てば、当時の海外からの外圧が、吉田松陰に、ある種、長州藩主への主従奉行関係とはまったく別の、違った価値観の思想へ、彼を強いて行ったってことなんでしょうかね。
この論文の最後の方で、柄谷さんはこんなことを書いています。
しかし、未開社会の互酬原理は、階級社会や至上経済によって消滅してしまうわけではない。それはべつのかたちで執拗に残る。たとえば、専制国家の形成を妨げる原理として、また、商品経済に抵抗する原理として。それはまた、宗教というかたちで存続する。私は以前に、交換様式(D)は交換様式(A)を高い次元で回復するものであり、それは普遍宗教というかたちで最初に開示されたと述べた。
もちろん、現実の普遍宗教は社会に受け容れられるとともに、それ以前の宗教と同類になってしまう。つまり、国家や共同体のイデオロギーとなる。
吉田松陰を、最終的に、転向に踏み切らせたのは、仏教の僧侶ですね。もともと、日本の仏教には、天皇を仏のような存在として、まず仮託して、その天皇の下に、国民への、衆生の教えを普及し広めるというような、一種の国家宗教的な考えがあったわけでね。
吉田松陰の言ってることも、孟子からの発想なんでしょうが、日本人の平等、身分差別の撤廃であったり(天皇は除くでしょうし、藩主についてまではどこまで考えていたかは、よく分かりませんが)、かなり、幕藩体制との発想と違ったものに親和性をもったりするわけですね。
だから、朱子学にしたって、当時の、仏教や道教を、むちゃくちゃ対抗意識もって、理論武装されてるわけですし、武士道にしても、かなり、キリスト教の影響を受けているわけですし。上に書いたような、主従奉行的な関係とはまったく別な力学として、やっぱりこの、普遍宗教的な発想が、いろいろなところで影響を与えていることは間違いないことではあるんでしょうけどね。うーん。
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