春日真人『100年の難問はなぜ解けたのか』

NHKスペシャルの書籍化。
数学について考えることは、人間なら、ある種の興奮を伴わずにはいられないだろう。
よく「数学を勉強して、なんの役に立つのか?」ということをのたまう子供がいるが(同じようなセリフに「どうして人を殺してはいけないのか?」なんてのもありますね)、逆に、そういうことを言う奴に、次のような皮肉を言いたい気持ちになる。「数学以外にこの世の中でやることなんてあるんですかね?」。
もっと言ってみよう。人間がやっていること、すべてが数学じゃないのか。
数学とは何か。一つの答え。数学とは、「事件」である。
ペレルマンは怖らく2000年には、このポアンカレ予想を解決していただろうという。しかし、それにしても、つい「最近」すぎないか。あまりにも突然、この異物はこの世界に生み出されたのだ(また、その証明が実に多くの分野をまたがっているそうで、スリリングでしょ)。
このように、ペレルマンの証明は、まったく、突然、人類の歴史に現れる。そして、現れることによって、次の日から、この世界はなにも変わっていないあい変わらずの日常であるのに、人間にとっては、「この世界を、昨日までとは、まったく違った姿でしか、見れなくなる」のだ。
そう。人類の歴史とは、数学の歴史であり、それ以上でもそれ以下でもない。私は別に、冗談を言っているつもりはないのだ。例えば、数学基礎論は、数学が基本的に言語という、単純な幾何学という種類のものじゃないかという視点だった。数学基礎論が、数学の言語性に着目したものだったとすれば、数学そのものは、言わば言語「活動」そのもの、という言い方がぴったりかもしれない。
あらゆる言論活動は、なんらかの推論を伴い、そして、それは、どうしても、数学的なカラクリを表面上とることになる。もちろん、その表面上のカラクリは、とうてい実体に迫れているとは言えないだろうが(そして、この差異こそ、柄谷さんの、固有名論のポイントだったと思うが)、そのことは逆に、人間の表現の到達点の低さを示しているにすぎない。どちらにしろ、この形式から、逃げることはできなのだ。
現代社会においても、あらゆるところで、この数学の事実が、自明のように使われている。だれも、気にしないし、意識しないだけで。これだけ、現代が便利になっているということは、裏を返せば、あらゆる細部に数学的な保障を与えられて、安心できているから、こういった利益を享受し、細部を意識しないで、多くの人が日々の暮しを自分個人の関心事に集中できているわけだ。
もともと、それが知と呼ばれてきたものなのだ。
数学が分からないのでも、数学が一生役に立つことがない、のでもないのだ。あなたがなにかものを考えようとするなら、知的に生きようとするなら、それは、不可避のこととして、数学のかたち以外にありえないのだ。
数学とは何か。一つの答え。数学とは、「パンドラの箱」である。
数学とは何か。一つの答え。数学とは、「モービー・ディック(メルヴィル『白鯨』)」である。

「大学院で一緒に勉強していた頃、ペレリマン先輩は明るい普通の若者でした。私たちは一緒にパーティーに参加したり、新年をお祝いしたりしたんです。夏休みには勤労奉仕コルホーズ(集団農場)にも行きました。他の仲間となんら変わることはなかったんです。
でも、アメリカから戻ってきた彼は、まるで別人でした。ほとんど人と交流しなくなったのです。昔みたいに声をかるこもできない。私たちとお茶を飲んで議論することもなければ、祝日を祝うこもありません。驚きました。以前はあんな人じゃなかったのに」

ペレリマンの論文の中の、あのあまりにもひかえめな幾何化予想へのふれかた、こういったことからも、かなり確信犯的なんですね。最後に、数学について、実に、その実体を示唆するコメントが載っている。

「数学者の集まりは、見た目でほかと区別できる。例えば、機械工学の学会などでは、出席者はスーツにネクタイを着用。受付での登録(レジストレーション)なども体裁が整っている。物理学の学会になると参加者の服装はもう少しラフで、ネクタイはしていないがジャケットくらいは着ている。だが数学の学会ではネクタイをほとんど見かけない。教官でも、まるで学生のようなジーンズ姿が珍しくない」

むしろ、なにかを特異であると言挙げすること、その振り上げたナイフは、常に、自分に返ってくる。そしてそれが、内省を促し、不安にする、ということでしょう。でも、それはきっと息苦しいだけじゃないんでしょう、だから、そうなんでしょうね。

NHKスペシャル 100年の難問はなぜ解けたのか 天才数学者の光と影

NHKスペシャル 100年の難問はなぜ解けたのか 天才数学者の光と影