プロフェッショナル・仕事の流儀「特集・宮崎駿のすべて」

今回の内容は、なんとも考えさせるものであった。特に、後半の、宮崎駿と彼の母親との関係の告白は衝撃的にも思えた(よく知られた話なのかどうかもしらないが)。ロリコンじゃなくてマザコンだったということだが、彼が子供の頃、運動ができず、兄弟から、心配に思われていたというのも、母親について、彼が特別に考える動機にもなったのだろう。
骨髄性の白血病だったかで、彼が子供の頃には、彼女は立ち上がることもできず、子供を抱くこともできなくなっていたという(トトロのサツキとメイの母親ですね)。ナウシカができる前に、亡くなったそうだが、こうやって見ると、宮崎アニメのすべての少女、女性は、なんらかの、彼の母親そのものと言ってもいいのであろう。
彼の母親は、ほんとは優しいんだろうけど、気難しくしか人と接せられない人だったという。しかしそれは、彼の印象としては、病気の進行とともに、そういう傾向を強くなっていったと。
番組でも言っていたが、彼は、たとえ、体が悪くても、ああいう気難しくじゃなく、人と接すことのできる、違った生き方はできなかったのか、そうした救いの道を、ずっと問い続けて来たところがある、というのだ。
彼の作品のあそこまでの森羅万象が躍動するスピード感は、どこか、そんな母親の動き回れなくずっとベットの上にいる、そんな母親の欲望を、動き出「させる」、そんな感情移入から動かされてきたものだったのかもしれない(たんなる描いた絵という、まったく非現実なものを、たんに何枚も重ねるだけで、この世界を生み出すというアニメ、そんな造物主のような所作からも、ぴったりしたメディアだったのだろう)。
私はあまり個人的なことは言いたくないが、(軽いものであれどうであれ、)これに似たような心理学的な感情、トラウマをもって生きてきた人というのは、おそらく、かなりいるのではないだろうか。今回は家族であるが、家族の特徴は、子供が成人するまで、その家族と共に長い間、一緒に過ごすということでしょう(特に、すべてに決定的な幼少期から)。そうすると、ラベリング理論じゃないけど、自然と、その人間関係の中で、その人自身のキャラ、振舞い方が、傾向性をおびてくるんですね。まったくそこは、バランスの中の立ち居振る舞いの世界であって、事実として、そうやってきた、という事実性でしかないんだけど。
だから、彼の母親自身にしてみれば、そこまで、子供がこんな人生の最後に近くなるまで、こんな母親自身の生き方で悩むなんてまで深刻に、彼女自身が考えたわけないんです。もともとそういった傾向性は、事実性、そうやって(いつからだか知らないけど、ある時から)振る舞ってきたから、単にそうであるという以上の意味などないものなのだから、それは他の生き方はあったかもしれないが、それなりにしっくりと受け入れてきたものなのであって、まあ、むしろ迷惑な話でしょう。
しかし、それを「外」から見ている方にしてみれば、どう考えても、異常な、受け入れられない、なんらかの解決が必要なはずの「問題」なんですね(特に、この場合のように、病気が発症して、だんだんにこういう振舞いがひどくなっていく過程を、彼自身が、無知で多感な時期に見てきてるだけに)。だから、まさにラベリング理論で、もともと、自分自身のキャラ、傾向性が、そういった周りとの関係性から、ほとんど自意識が確立する前から、「選ばれて」きたものなのだから、自分自身になんらかの問題意識をもてばもつほど、その違和感は、周りの人間への違和感の解決と、まったく切離せなくなっている、ということなのでしょうね。
ナウシカの頃であるから、ずっと前に亡くなっていながら、今だにそのカルマから逃がれることができず、こうやって、彼自身が晩年に近くなっても、そういったモチベーションで作品をつくっているというのもね、なんなんでしょうか。もうずっと前に亡くなっていながら、今でも、そのことを抜きに考えられないんだと。
ただ、こうやって、アニメなどという、ともすれば、偶像崇拝的なフェチシズムの塊みたいなものをやっていながらも、逆に、彼の言わば、ちょっと、アナクロニズムにも思える、売れなかった時代に、古くさいと酷評された作品のアイデア、また、彼自身の、まったく、かざらない風貌、ぶっきらぼうにしか人と接せない感じが、どこか合点のいき、(好ましいまではゆかなくても)納得はできそうな、そんなところまでは思えてこないだろうか。