高橋敏『江戸の教育力』

北京オリンピックの開幕でさわがしいときに、こんな地味な話題でもうしわけありませんが。
著者は、前に、紹介した国定忠次の解説本を書いた人で、この本では、江戸時代の全国に広く分布した、寺子屋などの、多くの庶民が学んだ、江戸の教育について、いろいろな具体的な人を紹介して、解説している。
前に、徳川家の子孫とかいう人の本を紹介したが、私は、つくづく思うのだが、明治政府は、江戸時代を、自分たちが、倒した体制だけに、いいようには描かないんですね。暗い、人々が苦しんでいた時代であって、それを解放して、救ったのが、この明治政府なんだ、というメッセージを、ずっと受け続けているのが、それ以降の日本人だと思うんです。やはり、革命によって、王朝の交代は行なわれたのであって、そのことに触れる「タブー」はずっと続いているんだと思うんです。
でもそれはもちろん違う。違うだけじゃなくて、むしろ、そのタブーを乗り越えて、真の日本の姿を、そこから取り返すことからしか、この日本という土地への、知的な誇りの感情はありえないし、生まれえない。そんな、明治政府がこしらえたニセモノの日本で、「日本人としての誇り」を伝々してるようじゃ駄目なんじゃないですかね。
江戸幕府が成立した条件としては、なによりも、鎖国があったと思います。しかし、鎖国は、完全な情報の遮断ではないんですね。それなりのルートで、いろいろ、世界の情報は入ってきていた。しかし、そうはいっても、(当時の社会情勢もあったのでしょう)外圧を考えなくてよかったことは、多くの人が政治的な圧力を考えないで過せる結果となった。また、徳川政治は、徹底した、自由化、地方自治を行った。できるだけ、徳川幕府に責任のおよぶような、実力行使の役割が自分たちに集中することを徹底して、避けたんですね。

支配にせよ、武力による武断政治は影をひそめ、お触れや法令に基づき文書を介して行われた。年貢を取るにも割付状を出し領収の皆済目録を渡した。支配はすべて文書の事務手続を経る。文書は「御家流」という書体で統一され、徳川氏の支配が及ぶ北は蝦夷地から南は琉球まで通用した。民間も同様で、商取引、田畑の売買、金銭の貸借など御家流で書かれた証文が交された。日本全国が御家流の文字文化でひとつに統一されたと考えてもよい。この長く続く平和の時代を生きるためには、まず御家流の文字文化を学ばねば幸せにはなれない。

この、契約書社会は、隅々まで、浸透しました。すべては、言葉によって、決せられる社会が実現したわけです。このすごさを、あまり理解されていないかもしれません。
たとえば、ある豪農の家の息子が、とんでもない放蕩息子だったという例が、この本にのっていますが、家長である父親は、その子を勘当して、よその子を養子として迎え、その養子に家督を継がせます。実の母親は、自分の実の子を手放させられて、よその養子の子を育てさせられることに不満なのですが、父親は、その自分の子の常日頃の素性を考えて、見切りをつけるわけですね。
イエ制度というのは、そういうものなのです。イエが未来にわたって続くのは、ひとえに、家長の能力によるわけです。もし、その家にどれだけ資産があろうとも、家長が、たんなる贅沢に慣れた放蕩野郎だったなら、一瞬にしてそのイエはこの世から消え去る。事実、そういうケースがあちこちに絶えなかった。
そして、勘当するときに、親族の人に一筆書いて、養子を迎えるときに、立派に育てると一筆書いて、亡くなる前にも、遺言として、その実の子とよりを戻すことはあってはならないと、一筆書く。ことほど左様に、なにもかもが、契約書社会だったわけです。
そういったわけで、寺子屋においては、まずもって、この契約書社会を生き抜ける、文筆能力の養成が徹底して求められたし、また、上記にあるように、人格のしっかりした、しつけられた、子供の、人格的な修養を、預ける側は、求めた。
江戸時代全体にわたって、ものすごい多くの寺子屋が存在して、日本中の各地には、その寺子屋の先生を忍んで立てられた石碑が、実にたくさんあるのだそうだ。
ここに、ある人々の姿が現れてきたわけだが、この寺子屋の先生たちとは、どういった存在なのだろうか。
前にも書いたが、江戸時代、イエ制度において、家を継がない、次男、三男、などは、実に、不思議な存在となる。彼らは、たいへん不思議な、根無し草の生き方を選ぶことになる。もちろん、この長男との差別は、間違いないのだが、逆に言うと、彼らは、そのイエというしがらみから、解放された生き方を選べたということなのだ。もちろん、親からは、実の子供なのだから、それなりの援助もしてもらえたであろうし(長男にもしものことがあれば、彼らが、継ぐわけですしね)。
寺子屋の先生たちというのは、どういったことに動機付けられていたのか。

子曰、有教無類(『論語』衛霊公第15)
子曰わく、教え有りて類無し。

吉川幸次郎の注記には次のようにある。
「あるのは教育であって、人間の種類というものはない。つまり人間はすべて平等であり、平等に文化への可能性をもっている。だれでも教育を受ければ偉くなれる。」
孔子は、生まれてきたときは人間皆同じまっさらな状態であってその後どのような教育を受けるかよってどのようにも変わるのだと諭した。人間の種類、身分や出自に関係なく百姓・商人も教育によってどうにでもなれる。この条を最も評価したのは町家生まれの伊藤仁斎であったという。

まず、江戸時代なんて、文明開化もまだ達成していない野蛮人の社会でしょ、と思うなら、そのイメージを改めなければならない。江戸時代こそ、徹底して、活版印刷、出版文化がすみずみの庶民にまで普及した、活字社会であり、だから、当然、彼らは、諸子百家に通暁し、当然、「荘子」も読んでる。こんな庶民が、野蛮人のはずがなかろう。国定忠次が磔にされる前に、彼は『孝経』の一節を読みあげるんだけど、つまりは、こういう社会なんです。今の人の目でも、実に、志の高く、人間的に尊敬できる人たちなのです(もっと、彼らの残っている言葉に、耳を傾けようではないか)。
つまり、そんな寺子屋の先生たちの前には、論語を担保とした、身分社会を越える知識の習得と、それに伴って身につくとされる人格的修養によって、まさに、契約書的な「下剋上」が目に見えていたはずです。そうだからこそ、寺子屋の先生たちを偲ぶ石碑が日本中のあちこちに作られるような、弟子たちのこういった狂熱的な行動を次々と呼んでいったのでしょう。そこには、非常に志の高い、精神的な変革の運動があったんだろう、ということです。
当然、多くの庶民は、文字が読めずに、何度もだまされて一生、貧困からはい上がれないまま生きていた百姓も多くいたでしょう。そんな階級の子供たちに、寺子屋の先生たちは何を語ったのか。
『経典余師』という、全ルビカナ、全訳付きの、古典シリーズが、ベストセラーとなったという。こういった独学のツールに、各地方の名士の家は、多くの蔵書を集めることがステータスとしてあり、かつ、貸借して、いわば図書館のような役割をしていたという。
武士階級でさえ、養子制度が許されているのだから、(お金を積んでということになるだろうが)百姓や町人が武士になる例も、それなりにあったというし、移動にしたって、伊勢のお宮参りなど、さまざまな理由をつけて行われていて、その規制は有名無実化していたという。
この明治による、断絶ですね。ここには、これだけのダイナミックな江戸、生き生きと日々を考え生きる人々の心の動きがあったわけだし、それをまるでなにもなかったかのように、忘れて今がどうのといったり、日本の誇りがどうのというのは、なにか届かないものがあるのかな、と。

江戸の教育力 (ちくま新書)

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