野田正彰『戦争と罪責』

1998年の出版。昔、雑誌「世界」に連載されていたときに、少し読んだことがあった。あらためて、読んでみて、やはりおもしろい。
ここに紹介しなかった部分にも、非常に多くの重要な認識が書かれています。私は、この本のまま、この本の記述の順序まで踏襲して、映画にしたらいいんじゃないかと思いましたけど。どう考えても、なんの意味もない、ゴミ・ドラマやってるくらいなら、どれだけ挑戦的でいいかと思うんですけどね。
著者は、医学部精神医学科の出身のようだ。
精神科といえば、フロイトですが、フロイトも、晩年は、第一次大戦後に、大量にあふれた、戦争後遺症にとりくんだ人ですよね。精神分析と、戦争はきってもきれない関係にあるんでしょうね。
結局、21世紀も、マルクスフロイトなんですかね。
多くの人が忘れているのは、大日本帝国軍の軍人として、日本の外のアジアで残虐行為をしていた日本人は、(もちろん、BC級戦犯として、亡くなった人もいるが)多くは、日本に帰ってきた、ということですね。
しかし、なぜ、彼らの多くは、帰ってこれたのでしょうか。
もちろん、この質問にこそ、疑問を思う人もいるでしょう。「戦争が終わったんだから、帰ってきて、当然じゃないか」。
戦争が終わった?

このような学習よりも、彼の人間観を徐々に変えていったのは中国人所長の態度であった。決して侮辱しない、罵倒しない。食事は心をこめて料理して運んでくれる。散歩も体操もさせてくれる。髪が伸びれば、散髪してくれる。病気になれば、献身的に治療看護してくれる。世話されればされるほど、次第に彼は胸苦しくなっていった。一つひとつの中国人の態度は、対応する彼の過去の行為を想い起こさせたからである。
自分は優秀な大和民族の軍人だと信じ、中国人を見下し、怒鳴りつけてきた。自分の立身出世のため、中国人を捕えては局限の拷問を重ねてきた。喋らなければ反抗的だと憎み、拷問に少しでも抵抗すればさらに激怒し、あえぐ口や鼻に汚水をそそいできた。
口阿口阿痛苦不能耐受[アアトンクーブヌンリンショウ](ああ苦しい、耐え切れない)
我要死了、救命口阿[ウォヨウスウラ、ジョウミンア](私は殺される、助けてください)
我是好人什麼也不知道[ウオシハオレンシエムマイエブチドウ](私は良民で何もしていない)
と叫び、頭を板の間にガンガンと打ちつけて命乞いをする男たちを、「何をこのチャンコロ、虫けらが!」と言い放ち、なおも拷問を続けた。留置場にもどしても、水も与えず、メシも与えなかった。嘆願する中国人をけとばしたこともある。一度だって、中国の人たちに入浴や散髪をさせたことがあったか。思いつきもしなかった。薬を与えたことがあったか。親子、夫婦の愛情や必死の命乞いの願いを、一回も聞き入れてやったことはなかったではないか。
土屋さんは胸が苦しくなってくるのだった。こんなにしてもらって、いいはずがない。厚遇に甘んじている自分は、どんな人間だというのか。
彼は個人として尊重される、戦犯と管理者という役割関係であってもその前に対等な人間として交流するという、初めての体験をしていた。これまでの日本人としての人間関係には、役に立つか立たないか、効率と打算の視点しかなかった。信頼も、役に立つか否かで考えられた。家族関係は愛情に満ちたものだったが、それは土屋家という、いわば自己が拡大した内部でのことであった。個人としての対等な関係ではない。
初め、こんなに米の御飯を食べさせてくれる、病気の治療をしてくれると、土屋さんは物のサービスに驚いていた。その次に、病が重いときは献身的に看護してくれる、親や妻子を殺された人もいるのに、罵りひとつ言わないという、人間関係のあり方に当惑している。それは、打算と効率で対人関係をみる日本人の理解を越えたものだった。
53年8月のある日、土屋さんは散髪屋に向かって歩いていた。その日、「今日は散髪だ」と言ってきたのは劉長東班長だった。劉班長ハルビンの狭い監獄に疎開している間、左官組の部屋の掃除や食事の後片付けを彼にさせた。黙って几帳面に掃除をする土屋さんに、好意をもったのであろう。運動する場所のない環境では、誰しも動けることが嬉しかった。
「なぜか知らないけど、劉班長が俺を使ってくれた。憲兵のなかでも俺ほど悪い奴はいない。それを知っているのか知らないのか分からないが、人間扱いしてくれた。毎日、俺に掃除をさせた。本当に親切だった」
その劉班長に先導されて、廊下を歩いていた。劉班長はいつもどおりにこやかだ。歩いていて罪を自覚する瞬間を、土屋さんは『われ地獄に墜ちん』で次のように書いている。

その時、ふと、俺は一度だって中国人を散髪させたことも、風呂に入れさせたこともなかったなあ、と思った。つづけて、張恵民と妻をだまくらかして、張を処刑したことも、八十歳の老母を鉄道自殺に追いやったことも頭に浮かんできた。罪行がグワーッと、頭におしよせてきた。頭をコンクリートにぶちつけ、たたき割ってしまいたくなってしまった。劉所員は、ニコニコして、私たちの先頭を歩いていた。胸の堰が切れた。俺は一体どうしたらいいのだろう。いてもたってもいられなかった。涙がこみあげてきた。自分でもどうしようもなかった。目の前がボーとするようだった。私はうろたえた。力の抜けていくのがわかった。そして、ふらふらと、劉所員の前に私は立った。私は、くずれ落ち、両手をついて、土下座をした。
「おい、五十二号、どうしたんだ」
劉所員のその声は優しかった。
「私は、極悪人だ! 中国人にひどいことをしてしまいました。中国人にひどいことをしてしまいました」
床に頭をなすりつけた。どっと、涙があふれ、鼻水もしたたってきた。半狂乱だった。あたりは静まりかえって、私の嗚咽だけが響いた。自分でもどうしようもなかった。長い、長い時間だった。ひとしきり泣き叫ぶと、劉所員がひざをついて、私の腕をとった。
「よくわかりました。よくわかりました。どうか立ちなさい。どうか立ちなさい。[ミンパイラ、ミンパイラ。チヤンチイライ。チヤンチイライ。]」
劉所員は、ハンカチを取り出し、私をだきかかえるように立ちあがらせた。

われ地獄へ堕ちん―土屋芳雄憲兵少尉の自分史

われ地獄へ堕ちん―土屋芳雄憲兵少尉の自分史

イデオロギーではないのである。たんに事実性。どんな事情があろうとなかろうと、彼ら中国人たちは、そういう振舞いをしたのであって、別にそれだけのことなのだ。その事実だけが残るのであって、それしかないのである。
別に、中国政府は、国定忠次の最後のように、聴衆面前の前で、かたっぱしから、日本軍捕虜を、キリストのように、くしざしにしてもよかったのである。むしろ、土屋さんたちは、そうされるのが当然だと思っていたし、なぜそうしないのか、最初は、「本気で」不思議がっていた。
ヤスパースの有名な戦争責任論の、形而上的罪は、言ってしまえば、どこにでもあるものなのだろう。
永井宏の独我論は、そういう意味では、いい逆説になってるのだろう。この世界には他者「しかいない」。
あまり、難しく考えることもなくて、私たちは、別にそんなたいそうな生き方をしてきたわけじゃない。この世に、オギャアと産まれて、生を与えられてから、さまざまな人のちょっとした作業に、優しさ、親切、愛情を感じ、そこに恩義を思って、それに報いようと生きてきただけなのであって、土屋さんはこの「普通なら」なんでもないことが、どれだけのことだったのかに、ようやく気付いた、ということなのでしょう。
そもそも、「中国人憎し」での虐待って、民族浄化とも言いますけど、この非人称性ですよね。もう、無差別テロでしょ。オウムと変わらないでしょ。ある個人じゃないわけでしょ。あんたとなんの因縁もない。
生物学的に考えても、民族浄化というのは、ある遺伝子グループの抹殺になるわけだけど、それって、地球上の遺伝子の組合せのパターンを、一介のヴィークルのぶんざいで減らそうってわけだから、遺伝子の多様性戦略に反する行動をとってる、ということでしょ。ハメルーンの笛吹きの世界そのもの。遺伝子の自殺行為なんでしょ。

戦争と罪責

戦争と罪責