丸山眞男「忠誠と反逆」

1960年の論文であるが、これをどう読むべきなんでしょうかね。
下記文庫の解説にもあるように、丸山は、戦中の、日本の官僚(これは、ナチの官僚の評価と通じるのだが)へのほとんど否定に近い評価がある。では、それに変わるものとして彼がどんなことを考えていたのか。そのヒントが、この論文にある、「諫言」なんですね。
諫言とは、家来が、自らの奉行先の主人に対して、(書状などによって)忠告することですね。確かに、これには、直接民主制にもつながるような、原初的な政治のありかたを思わせはしますね。
この可能性を意識するとき、その歴史的経緯が問題になる。
まず、問題は、忠誠を受ける側の、正統性「名分論」のうさんくささです。いったい、なにをもって、その権力は正当化されるか。
さかんに、逆賊だとか、言っていたが、なんのことはない。「勝てば官軍。負ければ賊軍」。だれもが、そんなことは知っているわけだ。まったく意味がないのだ、こんな区別。

著名な「長州再征に関する建白書」(慶応二年)に、「総て名義と申は兵力に由り如何様にも相成候事にて、光秀が信長を弑候得ば、直に光秀へ将軍宣下、又秀吉が首尾よく光秀を誅し候得ば、則豊臣家の天下と相成、......既に此度長賊の官軍え奉対苦戦候も、万一勝利を取らば京都へ伐ていで、朝敵の名を勤王に変じ、恐れ多くも官軍え朝敵の名を与へ候目論見にこそ可有之、右の次第に付、朝敵と云ひ勤王と云ひ、名は正しき様に相聞候得共、兵力の強弱に由り、如何様とも相成候ものにて、勅命抔と申は、羅馬法王の命と同様、唯兵力に名義を附候迄の義に御座候」とあるのがそれである。

むしろ、賊軍であるからこそ、「正統」なのだ。

楠正成や赤穂浪士はまさに忠臣という側面よりも、「何処マデモ其意地ヲ立テ通シ、其信ズル所ニ殉」ずる「抵抗ノ精神」のゆえに賞揚され(山路愛山『日本人民史』)、「大和魂」とはほかならぬ抵抗の精神の同義語となる(!)。史論だけでなく、彼の政治論が基本的に「総ての力は之に抵抗するものであり、その障碍となるものありて、始めて能く節制せられて、訓練せられ、軌物に容れ得るものとなる。如何なる場合に於ても絶待にして何物も抵抗し得ざる力は変じて暴力とならざるを得ず」(山路愛山『書斎独語』明治四十五年)という哲学にささえられていた。

しかし、そうだとしても、この頃には、まだその、家産封建的な忠勤の認識が共有されていた。
また、他方で、よく言われるように、戦後の、日本の会社とは、それまでの日本にあった、家産封建的なものの代替物として機能した部分があったことは確かでしょう。
しかし、明治から、現代に移る間に、人々は、都市に移り住み、賃金サラリー生活となるとともに、個人化が進む。
また、バブルの崩壊を通して、グローバル・スタンダードが言われるようになり、さらに、どんどん社会を、個が漂流する。
この論文で、E・ホッファーにふれているのには、ちょっと驚いた。