桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』

昨日の、今日で、さっそく読んだ。
これこそ、彼女の、初期の作品の中で、ターニングポイントとなったもの、ということらしい。
主人公の、山田なぎさ、は、田舎の、女子中学生。漁師だった父は、幼い頃、海で亡くなり、母子家庭。兄は、中学を卒業したときからずっと、ひきこもりで家から外に出ない。彼女は、中学を卒業したら、地元の自衛隊で働くつもりでいる。
ある日、海野藻屑が、2リットルのミネラルウォーターのペットボトルをもって、山田なぎさのクラスに、転校生として、入ってくるところから、話は始まる。
っといきたいのだが、実は、1ページ目で、その、海野藻屑が、バラバラ死体となって、近くの裏山で、発見されることが、新聞記事の抜粋という形で、書かれている(しかもそれが、山田なぎさによる発見であることが、ちょっと暗示されるような形で)。
山田なぎさ、は、奇矯なことを次々、発言し続けながらも、なぜか妙に、自分を慕ってくれる、海野藻屑を、最初は嫌に思っていたが、彼女が、幼い頃から、現在に至るまで、ずっと、父親による、DVの被害を受け続けていること(しかし、彼女は、その父親に、無類の愛情をもち続けている)を知り、また、何度も無神経にシカトしてくると思っていた彼女が、実は、左耳が聞こえないだけで、右から話しかけていた時は、必ず、反応してくれていたことなどに、気づいていくことで、どんどん、彼女への親愛の感情が知らず知らずにつのっていくことに、気づいていく。

あたしは藻屑に言った。
「逃げようか」
藻屑が一瞬、ぴくんと動いた。
ちらっと見ると、にやにやしていた。いつもの顔だ。痣だらけの青白い顔に、へんな笑顔。
「いいよ。山田なぎさが逃げたいのなら、一緒に行く」

私が気になったのは、この小説の、「語り部」的な位置にある「わたし」が、どういった設定になっているのか、です。
ハタチもとっくに過ぎた、作者が、書いているわけだから、大人になった、山田なぎさが、子供の頃を思い出して、書いている、というのが普通なんだろう。
そうなのである。サバイバルしたのは、「わたし」であって、その「わたし」に、まるで、命を託したかのように、思い出の中の、少女は、永遠に、少女のままで、存在し続ける。
前の、『推定少女』でもそうだったが、幼稚な主人公を、どこか、超越的な(逆に言えば、刹那的な、痛々しい)部分をもった、友達、が、ある日、まるで、主人公を、「補完」するかのように、突然、目の前、に現れる。
その友達は、自分がなんの特徴もない普通の存在だと分かっているはずなのに、まるで、そんなことはないかのように、なぜかわからないけど、会ったその日から、自分を「選んで」くれて、自分と最後の最後まで、つきあってくれる。
他方で、その友達には、主人公には決して、近寄れない、理解できない部分があることを実感しながら、しかし、そうであるからこそ、逆に、どんどん相手へ、心が吸い込まれていく。
ここには、ある非対称性がある。相手は、お互い出会ったときに、なぜか自分を無条件で受け入れる。しかし、自分はその理不尽さがどうしても許せなくて、拒否し続ける。だが、いろいろな事件をきっかけに、むしろ、自分の方が、この関係が尋常ならざる重要なものであったことに、時間がたつごとに気づき始め、しかし、気付いたときには、もう、どうしようもない、後戻りできない事態であることを、後悔とともに理解することしかできない。
しかし、そうなのだろうか。相手が、最初にいい印象をもってくれたのは、本当に、偶然でしかなかったのかもしれない。きまぐれ的なものだったのかもしれない。しかし、自分には、今、こういう事態に至った今において、とてもそうは考えられないのだ。そんなことは、無理なのだ。

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない―A Lollypop or A Bullet

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない―A Lollypop or A Bullet