横田由美子『ヒラリーをさがせ!』

自らを、「政治記者ではない」と語る、著者は、この本で、何人かの、政治的組織票ももたずに政治家になった、女性にインタビューをする。
著者が、そういった女性にインタビューをしたことは、彼女に言わせれば、話を聞きたかった相手だから、ということらしい。共産党などのように、組織票によって推戴されて政治家になる人たちではない(そういうのを、著者は否定したいわけではない、と何度も断る)、自分の身一つで、こうやって選挙を勝ち抜いてきた、(自民党民主党の)彼女たちの、その心性を知りたい、ということなのだろう。
しかし、その質問の一つ一つは、自分の日々の生き方、考え方を問うことを迫る。

最近、女性誌をひらくと、つねにキャリアアップに励み、若さと美しさを忘れず、恋を楽しみ、結婚をし、子どもを産んで.......というサイボーグのような女たちがたくさん紙面を飾っていることに気づく。
しかし、すべてを手に入れることなど、本来どう考えても無理である。少なくとも不器用な私にはできない。でも、それでも、すべてを手にいれることが「最上な女」であるとされているなら、やはりその称号を得るために努力してしまうのだ。

まさに、現代において、仕事も恋も、となれば、どこかそれは、「サイボーグ」、なんだろう。
サイボーグ。
現代人を、よく表した言葉ですね。
著者は、佐藤ゆかり議員が行う、マスコミ批判についても注目する。しかし、そこにあるのは、むしろ、この男社会の、お座敷政治への、なんともいえない、いらだち、である。
実際、企業でも、大事なことは、男たちが、つるんで行く、お座敷や、キャバクラ、で、いろいろなことが決まっていく。しかし、そういう場に、女性はいない。もちろん、いてもいいが、そうなると、女性の方のスキャンダルとして扱われる。
著者は、女性が、最初に社会で自分の限界にぶつかるのは、就職試験のとき、だ、という。ここで、男たちとの、あまりの、待遇の違いにぶつかる。彼女は、入社時に、圧倒的に優秀だった、女性社員は、30歳ごろになると、多くが、それほど優秀でなくなる、と指摘する。
私が、むしろ、なんとも興味深く思うのは、この著者の、旺盛な、上昇志向、であり、彼女の、いらだち、なんですね。
この著者が、女性議員のファッション・センスの、ひどさを、ぼろくそに言ったり、その女性議員が、2世議員でもない、なんの親の七光もないくせい、やたら、えらそうにしていることを、(大衆を代表して)タカビーで、KY、だと、揶揄する姿は(もちろん、著者は、「世間」は、そういう村共同体、なんだ、と言って、アドバイスでもしてるつもりなんでしょうが)、まさに、社会の泥沼を、欲望たくましく生きる、「大人」だ。
こんなことを考えるのは、ちょっと前に、桜庭一樹の、2冊を読んでいたからですかね。あの本にでてきた、彼女たちが、その後、生きていったって、こういう、「サイボーグ」大人社会が、待っている、だけだ。
あまり気にしてなかったけど、あの2冊で、主人公が、いろいろ変なことにぶつかったり、白雪や海野藻屑に出会ったり、そういうことが始まるのは、中学の、これからの進路を選択することを迫られる、まさにその場面から、なんですよね。
まさにここで、この世の中、人間社会が、どのように動いていて、どういうパワーによって秩序付けられているのかに、子どもたちは、直面し、対決するんですね。

ヒラリーをさがせ! (文春新書)

ヒラリーをさがせ! (文春新書)