ロバート・カニーゲル『無限の天才』

アメリカに、黒人の血をもつ大統領が生まれたことは、実に、歴史的な事件となった。欧米の社会は、変わろうとしている。それは、一言で言えば、「文化的な混血」ではないだろうか。
なぜ、このことが重要か。例えば、ナチスにとって、民族優越主義、こそが、彼らの主張の本質的なより所であった。「アーリア民族は他の民族と比べて、優秀だからこそ、自分たち民族が他の民族に優越して扱われることには根拠がある」(これは、どこか、日本民族の、朝鮮民族中華民族を、蔑視する視点にも、通じるでしょう)。しかし、アメリカの大統領、アメリカを代表する人物は、今、純血白人、ではないわけだ(純血なんて概念、ありえないでしょうが)。
オバマのどこか苦悩にみちた、就任演説は、今後の彼の行く道の険しさをあらわしているのであろう。
さて、掲題の本ですが、有名な、ラマヌジャンの伝記、である。
ラマヌジャンは、まだ、インドが、イギリスの植民地の頃、南インドバラモン階級に生まれた。
ラマヌジャンが、ハーディという、よき理解者に、めぐり会うことができたことで、私たちは、今、彼という人を知ることができる(もしハーディに会うことがなかったなら、彼は、無名のまま、ほぼ誰にも記憶されることなく、今日に至っていたのではないだろうか。それくらい、一人で高みまで行っていたため、この分野の最先端の人でなければ、判断できなかったのだ)。
また、ラマヌジャンが、イギリスの大学で活躍した時期は、ちょうど第一次世界大戦の時期だった(もし、そうでなければ、フランスやドイツの、むしろ、数論の本場の学者との交流によって、より多くの結果を残したのかもしれない)。
ラマヌジャンが、これほど、どっぷりと数学にのめりこんでいったのは、ある教科書(カー『要覧』)との出会い、からのようである。
それは、公理、定理、を示す5000余りの数式を列挙してあるもののようで(証明は、一言あるかないか、といったもの)、当時のイギリスのトライパスという優等生選抜試験の、家庭教師である著者による虎の巻、を本にしたもの、ということらしい。
しかし、これを見た、ラマヌジャンは、得意としていた数学の才能を、徹底的に刺激されたようだ。
しかし、よく考えてください。彼は、まともな教育を受けていない。
上記の公式集が手元にあるだけで、そこから、彼の空想を広げるだけ。どうして、それを批判できるだろうか。

機械的な本能に頼っている自動車工は、エンジンを支配する物理的及び化学的原理をあれこれ詮索せずとも、それがどう動くかを「知っている」。作家にとって、ある場面が別の場面に対して先にくるべきか後にくるべきかを「知る」ことは造作もない。そして、それがなぜなのかを証明できなくても構わないのだ。しかるに、数学者はある命題の真実性を推量、仮定、断言するだけでは満足しない。そのことを証明しなければならない。あるいはハーディが述べているように「既知命題の最高峰として、つまり真実性が認められている命題の誤謬なき配列の結果として結論を示したと確信せずにはいられない」のである。

しかし、そこから、ほとばしる数学の結果は、膨大な量であった。『ノート』と言われる形で、自ら、まとめていく。これが、後に、世界の最先端の数学者に、圧倒的な衝撃を与え続ける。
しかし、そもそも、なぜ彼は、このように、研究にのめりこめたのであろうか。言ってみれば、彼は、外からみれば、日本の「ひきこもり」と変わらない生活を続けていた。だが、なぜ、それが許されていたのであろうか。

バラモンの出身であったことも幸いしたのだろう。ラマヌジャンは貧しく、満足に食事もとれない家庭で育ったが、インドでは家計状態はカーストほどに重んじられない。バラモンなればこそ、もしそうでなければ声もかけてもらえない集団にも接近できたのである。実際、彼が会ってきた人々はほとんどすべてバラモンである。

バラモンなればこそ、ラマヌジャンは建設的な怠惰を必要とし、それを求めるのに吝でなかったのではあるまいか----ある点では、それを自分の責務であるとまで考えたのかもしれない。伝統的にバラモンはお布施や捧げ物を受けとる側にいた。生活の資を稼ぐことは必ずしも他の階級にとってほど気高いことでも、差し迫ったことでもなかった。容赦なく言えば、彼はバレエのプリマドンナのように、自分の数学に役立つこと以外はしたくないという、傲岸不遜な態度を矜持したのだ。また、贔屓目に見れば、彼は世俗に生きる托鉢僧だったということになろうか。

こうやってみてくると、ラマヌジャンという人が、そうあったということは、けっして、神秘的とか、天才的などとして、かたづけてはいけない面があると思うんですね。
例えば、最近読んだ、黒川さんのインタビュー

黒川信重「現代数論の戦略」

現代思想2008年11月号 特集=〈数〉の思考

現代思想2008年11月号 特集=〈数〉の思考

で、彼は、非常に好感をもって語っています。その意味なんです。
つまり、私たちが、数学に、のめりこんでいくとしたら、こういった形しかありえない、ということなんですね。そのことが、よく分かっているから、黒川さんはこういった好印象の目で、ラマヌジャンを語るんです。
私たちは、だれもが、数学研究の中心、最先端、には「いない」。そんなのは、一部の大学の一部の、いろいろな支援を受けている研究者くらいでしょう。
だから、このラマヌジャンの姿は、自分たちの姿なんです。自分たちだって、もし、数学にのめりこんでしまったら、このようにあるしかないんです。
ラマヌジャンの残したものは、幾つかは実際、それまでに証明されたものでしたし、不十分と言われてもしょうがないものも多い。しかし、その膨大な量、質は、圧倒的なんですね。しかも、彼はそれを多くの時間とともに、「自力」、で生み出した。
その脅威の結果に、多くの人々は、礼賛と共感とともに、ただただ、拝跪せずにいられない。

無限の天才

無限の天才