芸の道

今年の紅白は、さらに、エンターテイメント性を求めたようなものだった。一年間、NHKを、ずっと見てないと、なにをやってるのか分からないような、そういった、エンターテイメント性を、各所に、ちりばめられていて、結局、そういうことなんだな、とはちょっと思った。
今年のニュースといっても、「誰」にとってのニュース、ってわけで、もう、そういう全体を語れる場って、ないんだと思うんですね。そうなると、結局、「NHK」にとってのニュース、となる。一年間、NHKがどんな番組を放送してきたかを、総括するような、そういうエンターテイメントを整理する場が、紅白なのであって、それ以上でもそれ以下でもない、ってことだ。
私が、見ていて、印象に残ったのは、宮崎駿作品の歌のメドレーと、「おふくろさん」。
森進一が、故人の川内康範さんの遺思に反して、今回、「おふくろさん」を歌ったことは、賛否両論あるようだ。
ただ、NHKは、今までも、こういった「しかけ」をずっとしてきた所がある。美空ひばりが、ヤクザとの関係で、ずっと、紅白を辞退していたのを、ひっぱりだしてきたときも、NHKの側の、しかけ、といえばそうだ。
この話が分かりにくいのは、川内康範という人が、どういう人だったのか、なんですね。
いずれにしろ、今回の、「和解」とは、彼の親族が、逆に、これが「問題」とされていることを、嫌がったというところにあるわけですね。
許すかどうか、ということで言えば、そんなことができるのは、本人だけであり、その本人は、もうこの世にいないのですから、許されることは、どんなに願ってももう起きえないわけだ。
今回の話を、歌う権利があるか、とか、そういう話で整理すると、どうでもいい、どっちでもいい話になる。
むしろ、芸の道とは、どういうものなのか、という方向で考えないとおもしろくない。
芸の道とは、常にこういうところがあって、弟子は、師匠を、逸脱していくんですね。同じ人間じゃないんだから、分かり合える部分と、そうでない部分は常にでてくる。じゃあ、どうすればいいのか。一つだけはっきりしていることは、どちらの道を選ぼうと、両方とも、芸の道であることには、変わらない、ということなのでしょう。
さて、大橋のぞみちゃんのオープニングの「切手のないおくりもの」が話題だが、あのように、宮崎駿を、この紅白で、フューチャーする、というのがね。
宮崎駿については、そのNHKの特集の番組について、前にも書いたが、その番組の内容こそ、衝撃だった。
アルプスの少女ハイジ」は、ちょっと、今までのアニメには、まったくありえないような、実に細部の動きにこだわった動きをアニメに実現した作品であった。これほど、決定的に「アニメーションとは何か」を変えた作品はないだろう。
宮崎駿は上記の番組で、自らの母親(故人)への想いを、てらいなく披瀝する。彼の母親は、写真をみても、たいへん美しい女性であり、子供の頃の印象は、大変やさしい人だった、という。しかし、彼が自意識をもつようになるような年頃には、足を悪くして、歩くことのできず、ずっと、ベットの上にいる存在であり、そういう生活を強いられ続けるうちに、だれが接してもすぐに分かる位に、偏屈な性格、になっていった、と宮崎は言う(ちょうど、「崖の上のポニョ」にでてくる、偏屈なおばあちゃん、だ)。
彼は、どうしても、そこにこだわらずにはいられない。もう少し、なんとかならなかったのだろうか...。
しかし、それは、私たちからみたら、今の、宮崎さんこそ、そうでしょう。この人、言うこと、変わってすぎるでしょ(つまり、それが答え、だと言えなくもないですよね)。
宮崎さんの作品のヒロインは、すべてこの母親、だと言っていいでしょう。彼の作品のヒロインたちが、瞬間瞬間で、ある激情にかられ、ものすごいスピードで(加速度で)動き出すその姿は、いつも、歩くことができず、病院のベットでイライラしていた、母親を、(まさに彼が)「動き出させる」造物神の、手付き、なのである。その動きは、だれも押えられないくらいに、激情を発散させるくらいの過剰な、発散となる。
もちろん、現実の世界では、ずっと、いつもの母親でしかないとしても、このアニメの世界では、「母親」は、いっさいの足枷を解き放ち、自由に飛び回り、精神的にも(昔のやさしかった)解放された、「本当の姿」になる。そうしたとき、どうして、このアニメの世界が「偽物」だと言えるだろうか。
一方で、漫画的にデフォルメされた非現実的な登場人物の姿がありながら、他方で、やりすぎというくらいの細部の細かな動きの描写は、もう一つの、いや、「本当」の、世界を、この監督は、「創造」している、のであって、これらの作品こそ、リアルであるとは一体、何であることなのかを、問い直してくる、ということなのでしょう。
しかし、その母親は、ナウシカの頃に亡くなっているそうで、「アルプスの少女ハイジ」を見てるはずですよね。母親は、そういう意味で、「これ」が何なのか、を理解したはずだし、その「和解」は、あったわけでしょう。
しかし、むしろ、このことを、たとえ、そういった「和解」を経た後も、まったく、解消できず、こだわり続ける、この監督の、そのモチベーション、なんですよね。
こういう、世間の、アニメ・ブーム、オタクたちの饒舌と、まったく、関係ないところで、だれにも知られることなく行われてきた、この監督の、数々の作品。
これこそ、芸の道、とは、そもそも、何なのかを教えてくれないだろうか。
彼こそ、この世界のパイオニアであり、かつ、最後の、完成者。後にも、先にも、彼しか、いないのだ。