モラトリアムな君へ

変なタイトルになってしまったが、モラトリアムの時期にある人に、なにかを読んでほしい、という場合、どういうものを、まず、紹介するだろう、と考えてみた。
まず、モラトリアムという言葉だが、普通は、大人になるまでの猶予期間、のような意味で使われる。
つまり、大人になり、社会人として働きにでる前の、高校生や、大学生、のことだ。しかし、大学生となると、何年も留年したり、大学院に行く人もいるから、へたをすると、30近くまで、モラトリアム、なんてことにもなりかねない。
また、大学生だって、アルバイトをやってるだろうし、学生起業家、なんてものもある。
そうすると、結局、モラトリアム、って何ってことになる。子供は、産まれてきたときは、一人では生きていけない。親のさまざまな干渉によって、大きくなっていく。いわば、その干渉から、ひとりだちして、巣立っていき、社会の荒波に一人でのりこんでいく、そういうイメージで語られるのだろう。だから、その一歩を踏み出すまでの、精神的な心がまえを涵養する時間的な猶予期間だと。
しかしどうだろう。「大人」になったのだろうか。こうやって、社会人として働くようになって、一体、何が変わったのだろう。あいかわらず、子供の頃と同じように、気に入った本を読んで、開いてる時間をつぶす日々。私は、一体、いつ、大人になるための「儀式」を通過したのだろう。
そんなことを思いつつ、しかし、社会人になるとき、どのような心構えで、この世間という荒波に、乗り出せばいいのか、そんなことを考える、きっかけになるような本を、もし自分が選ぶ、としたら、それはどういうものになるだろうか。
やはり、その場合の特徴は、一方において、「全体性」を提示するものでありつつ、この社会に乗り込むことの、その社会の本質と、自分との関係を、どこか示唆するものであるべきであろう。
もちろん、通番的なものでは、トーマス・マン魔の山』あたり、を選ぶんでしょうが、私は、(これもいいけど)もっと、積極的な方がいい。
全然関係ないが、3という数字は、どこか、バランスのよさを与えてくれる。二つというのは、お互いの差を強調するようなところがあるが、3つになると、それが急に微妙なバランスになる。力学でも、質点が二つから3つに増えると、極端に複雑になるが、それと同じだ。
ということで、3つの本の紹介としようと思うが、まずは、

ギリシア哲学者列伝〈上〉 (1984年) (岩波文庫)

ギリシア哲学者列伝〈上〉 (1984年) (岩波文庫)

であろう。なぜこの本か、ということだが、なにより、ここから考え始めることは、自然だし、重要だ、ということだ。ギリシアこそ、今世界をおおっている、ヨーロッパ文明の、すべての始原と考えられている世界だ。しかし、読んでもらえばわかるが、古代ギリシアは、なんか変なのである。なんでこの登場人物たちは、こんなばかみたいなことをしゃべっているのだろう。そんなことを考えて、社会に出て、なんの役に立つのだろう。そんな話のオンパレードである。しかし、「これ」が、今の世界なのだ。この語りの延長に、今の世界の文化のベースがあるのであり、この本にある登場人物と内省による対話を続けることは、世界の人と対話をするベースを、あなたの中に埋め込むであろう。また、この太古の世界の生の姿をかいま見せるこの本は、人類の歴史がいかに偉大であり、逆にいえば、なんにも変わっていない、という衝撃的な事実を、いやというほど、痛感させるであろう。
次の本は、当然、

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

である。ニーチェを読むことは、今までも、多くの文化人に、考えるとはどういうことかを、具体的に「教えて」きた。ニーチェを読んで、人は、使用前、使用後、のように別人、となるという。これは、モラトリアムの子供にとってこそ、言えるであろう。
なぜ、そうなのかだが、それは、ニーチェこそ、この「現代」をつくったとも言える、からだ。ニーチェは、当時の、キリスト教社会を徹底的に批判した(神は死んだ)、私たちには、ガリレオの地動説裁判の頃と比較しても、なにかが違っている、ことにいやでも気付かせられるであろう。そして、彼は、新聞を嫌った。この頃から、大量複製文化、マスへの語りに、言語が変質していった時代なのだろう。彼の態度は、「ニヒリズム」である。彼の作品というが、ほとんどが皮肉なアフォリズムであふれている。彼こそ、この現代にたいして、とりうる唯一の態度、を実践した最初。その時から現代までずっと「ニヒリズム」の時代、なのだ。
最後は、前にも紹介した本ですが、一応、日本人ですから、これかな、ということで、

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

ですかね。モラトリアムが終わった、私たちが、これから、のりこむ場所はどこか。日本社会、である。そうしたとき、そもそも、日本社会、がどういうものであったかを理解することが、どれだけ重要であろうか。
この本の中で、主人公の東堂は、帝国日本軍、での生活を始める。しかし、昔の軍隊の中というのは、日本社会の縮図のような所である。韓国・朝鮮の方から、日本人の植民地支配への糾弾がされるとき、それは、わたしたち日本人にとっても、日本の軍隊、官憲のとりしまりが、バラ色のものだったなどということは、まったくない、そういう側面をどうしても考えてしまう。日本人にとっても、この国家の暴力から逃がれて生きることはできなかった。
しかし、この支配とは、どういった特徴があったのであろうか。私はここに、フーコー的な意味でも、大変興味深い問題があると思うんですね。主人公の、東堂は、軍隊生活を始めるにあたって、あるニヒリズムの認識をもって、入隊しますが、彼は、「たんに」この軍隊生活に、絶望したわけではありません。大前田などとの、彼の軍隊内の人々との接触は、多くの興味深い印象を残すでしょう。
ただ、こういうことを言っている私も、はるか昔に、3巻まで読んで、その後を読んでないんですけど。