卒業した感

このブログを書き始めた頃と、なにが、一番変わったかな、と考えると、やはり、

かな。
最初の頃までは、実は、あまり、天皇論、そのものに、興味がなかった。なかったし、今でもそうだが、いわゆる、学者とか、思想家、と言われる人の、天皇論、が、まったく、ぴんとくるものがなかった。全部、いろいろ書いてあるんだけど、ようするに、

  • 「奥が深い」。... かもね。

みたいな、生煮え、させるような、どーでもいーよーな議論ばかりに感じていた。つまり、それを一言で言ってしまえば、「タブー」というわけだ。
なぜ、そういった議論と卒業かな、と思えるようになってきたかは、過去のブログを読んでもらうとして、一言で言えば、天皇家、つまり、天皇家と今呼ばれている(京都に江戸時代まであった)一つのイエ、に、超越的な、倫理的価値など、まったくない、という、厳然たる事実、そのものなんじゃないでしょうか。
議論としては、坂口安吾の、堕落論で尽きていることは、明らかなんですよね。だから、これからも、この一家を、政治の舞台に、かつぎだそうとする、君側の奸、は、尽きることなく出てくるんでしょうけど。
もちろん、一時期、中上健次が言っていたような、万葉集からの日本の古典が、ほとんど、「やんごとなき身分」の天皇を礼賛する言説で、うめつくされていることも事実でしょう(当時の、天武天皇、あたりが、最初の律令政治を、中国の制度をまねして作る過程で、日本における文字文化が、一気に始まったわけですから、ある意味、当然なんですよね。この律令制度に関わるためには、律令政治に必須の文書を書かなきゃいけないんですから)。
明治の維新政府は、天皇を「神」として、西欧キリスト教でのイエス・キリストにあたる存在として、国民を地べたに額付かせ続けました。そして、これからも、こういう「神国家」への野心を隠微にもち続けていく人は少なからず輩出されていくでしょう。
アーネスト・サトウに、「神道論」という本があって、まあ、西欧社会に、日本の神道を紹介しようと、キリスト教と比較して、どうだとか書いてあるんだけど、これこそ、オリエンタリズムですよね。なにを言ってるんでしょう。キリスト教は、江戸時代初期まで、「日本中」を席巻していたんです。キリスト教は、江戸幕府によって、徹底的に抹殺されましたが(つい最近、NHK教育の、ETV特集で、ペトロ岐部、の特集をされてましたが)、その後の、日本文化は、「すべて」キリスト教の洗礼を受けた使用後、ですよ。あらゆる所で、おいしく、まねし、無意識に、キリスト教を「やって」るんです。
ちょっと話が、脱線しそうになりました。
そして、この問題の本質は、その、大衆運動性、なんですね。新しい教科書の会も、地方の教育委員会を中心に、末端からの、人海戦術を目指しました。グラムシじゃないけど、どれだけ、動員できるか、なんですよね。この国をファシズムにするなんて簡単なんですよ。国民の半分より少しでも上回れば、民主的に実現するわけですから。いかに、国民のマインド・コントロールが、権力者にとって、魅力的かってことですよね。
しかしですね。一つだけはっきりしていることは、

  • 天皇家と今呼ばれている(京都に江戸時代まであった)一つのイエ、の人たち。フツーの人、じゃん。

やっぱり、昭和天皇の、崩御のときの、妙な雰囲気を思い出しますね。この人こそ、神、だったんですね(それは、同時代を生きた日本人にとって、ということですが)。そして、神は、そのとき、死んだんです(「昭和天皇よ、再び」で、なんとかして、大日本帝国憲法、の復活を唱道する人も、あいかわらず、後を絶たないですよね)。
むしろ、戦後であり、その後ということでいえば、彼らの、何も知らない、純粋無垢さ、を政治の世界の、隠微な権力闘争の、汚い側面の隠れ蓑として、政治家が利用してきたのでしょう。国民に向けては、「腹黒い政治家は信用できねーけど、テンノーサマは、心のキレーな方だから、テンノーサマに頼まれたら、断れねー」。こんな感じでしょう。
しかし、逆に言うと、彼らも、フツーの、どこにでもいる人間、なんですよね。それほど、倫理的に、ずば抜けて、すばらしいことを語ったわけでもないし、実際、(政治的活動を徹底的に抑圧されているわけで)そういう活動を実践できる環境でもないし。

  • つまり、フツー。

なんですよね。
テンノーケについて、まわりでいろいろ語っている、政治家や、思想家や、政治学者の言葉は、オドロオドロしーけど、このテンノーケを実際に構成している、それぞれの人たちは、みんな、フツー、の人なんですよ。
ほんとに、ずばぬけて有徳な人、むちゃくちゃ、倫理的にリスペクトできる認識をもってたり、肝っ玉が人並みはずれてすごい実践だったり、というのなら、話は違いますよ。
堯舜に並ぶ、政治力、だっていうなら、それも認めましょう。
一歩譲って、学者としての学識が世界の森羅万象にわたるような知悉だったり、数学の問題発見の能力や、証明の能力が、抜群だったり、そういうのなら、すごいとは思いますよね。
でも、そもそも、そういう所に、テンノーケの、やんごとなさはないっていうんでしょ。そうなるともう、そういう神秘主義は、私の興味の外ですね。