崔元植「韓日関係の相互進化のために」

チェ・ウォンシクさんという、韓国現代小説を専門とする学者だそうですが、こういうおもしろい分析をする人が、向こうにもいるんですね。
チェさんは、この論文の最初で以下のように注意する。

日本は小国ではない。経済だけでなく領土もそうである。太平洋のところどころに点在する島々をつないでみると、日本が世界的な海洋国家であるという事実を実感する。沿海や領土で囲まれただけの韓国とは比較にもならない。

以前、姜ハンの「看羊録」を紹介したが、この本で、著者が日本につれてこられ、過した1、2年の間にまず、しょっぱなに、書いていることは、「日本は広い」ということであった。朝鮮半島の人は、ずっと日本はもっと小さい、(ある意味、チェジュ島のような)島だと思っていた、ということですね。

韓国人は現在でも島(あるいは海辺)をなんとなく下に見る。海に向かって進むよりは内陸へと向かう志向の方がまさっていた朝鮮王朝時代には、海洋は身分制のなかの最も低い身分につながる場所であって、流刑地である島で生きていく人々は一種の選民だった。

韓国語で「倭」は小人を意味する「矮」と発音が同じである。この無意識の言葉遊びを通じて、韓国人は日本を「小さな神の子供たち」が居住する変な国であると見下したいのである。

たとえば日本の地名によく登場する「カラ」という発音は、「韓(韓国)」と「唐(中国)」を同時に示す。このような事例は、中国に起源し韓国を経由して日本に伝来した文化伝播の一経路を示すにもかかわらず、日本では概して朝鮮半島経由をカッコに入れたまま、中国だけを前景化する。

韓流ドラマを見ている人には、おなじみだが、チェジュ島は、流刑人が、島流しにされる場所ですよね(まあ、日本の場合でも、多少、素朴だが、島流しはあった)。呉善花さんは、チェジュ島の出身だったかな。そういう本土の韓国人に対するひけめのようなものを多少感じなくもないですよね。
まるで、わたしの考えを証明してくれるような発言だが、ようするに、朝鮮王朝時代に、王朝に半旗をひるがえして、義を実現しようとした人は、日本に亡命してきた、ということなんでしょうね。それを犯罪者と言うのは勝手だが。

韓国が世界体制の周辺部から半周辺部へと上昇し、民主化が進む過程で、南北関係の漸進的変化が可視化すると、日本や日本文化に対する韓国の頑強な態度に亀裂が生じた。最近、韓国の小説市場を席巻している「日流(日本小説ブーム)」はその代表的な事例である。

こういう話は聞いたことがありますね。向こうでは、日本の小説が翻訳されると、よく読まれる、というような。この現象は、日本の韓流ブーム以上に、おもしろいですね。
最近の、好感度調査で、お互いの国に親近感をもつかで、日本が、5割くらいだったのに対して、韓国が2割くらいだった結果はおもしろかった。韓国の反応は、竹島でしょう。今、日本(こういう場合、日本政府、のこと、なんですけどね)に好感をもつというのは、向うでは、ありえないでしょ。
ただ、日本側のこの、5割、という数値は、ムチャクチャ、重要だ。これは、モノホンの数値だと思う。当分、これくらいは、キープするんじゃないだろうか。明らかに、変わってきた。韓国への旅行者も、以前と比べて、格段に増えているでしょう。
もちろん、この流れを決定的にしたのは、韓流ブームだ。韓流ブームは完全に日本に定着してしまった。レンタルビデオ屋に行けば、韓流のドラマや映画ばかりではないか。
最初に、こういうものを見たときは、オリエンタリズムではないが、ちょっと、ゲテモノ感覚もあった。日本は、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフにあこがれて、だれもかれもが、アメリカ人の真似をした。カッコイーとか、イケテル、とかは、ようするに、向こうではやってるカッコをしてるか、どうかでしょ。
その、不気味さを、他者によって見せられているような、感覚がある。しかし、日本人は、ケッコー単純だ。ベタを突き抜けると神になる。彼らが、(たとえ日本のマネから始まった部分が、たとえ、あるとしても)モノホンを提示してきたら、こっちもイカれるだけの感性はあるのだ。もともと、非常に文化的な関係は尽きないものがあるのだから。

東アジア歴史認識論争のメタヒストリー―「韓日、連帯21」の試み

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