萱野稔人「ナショナリズムが答えなのか」

高橋哲哉さんとの対談。
こういう、ちょっと、ホンモノの人と対談してもらうと、萱野さんの議論が、どういう位置にあるかが分かる。
萱野さんは、以前から、ナショナリズムに対する、世間の低い評価に不満があるという。
今のグローバル経済の中では、資本は、安い労働力を求めて、海外の辺境に進出する。その動きを止めることはできない。
もし、この動きにあらがって、「日本人」の労働賃金の水準を維持していくには、どうすればいいのか。萱野さんの答えは、「ナショナリズム」、となる。
ナショナリズムによる以外に、「日本」労働者を、他の外国人労働者に優先して、扱うことはできない。

ただ、そこから先は程度問題で、格差問題を解決するためにはナショナリズムが一定有効になるのですが、だからといってナショナリズムなら何でも肯定されるべきだとは思いません。

それに対して、高橋さんは、自分は、ナショナリズムの全否定をしているわけではない(日本帝国軍による朝鮮植民地時代の朝鮮国民による抵抗運動だって、ナショナリズムですからね)。ただ、(当然であるが、)高橋さんが上記の萱野さんの、楽天的なアンチノミーに対して提示する議論は、(靖国本を書いている人だけあって、)戦中に、日本がずっと行ってきた、韓国人、中国人、への、差別待遇。つまり、ナショナリズム、とは、ていのいい、差別、の別名でしかないわけだ。
それに対しては、萱野さんは、それは「問題」だとは言う。しかし、じゃあ、その問題だと言うことと、上記の議論との整合性がどうなっているのか、という話はない。
萱野さんは、なぜ、こうまで、差別を露骨に肯定するような議論を、当然のようにするのか。

政治の世界には無謬な立場というのはないわけだし、つねに両義的なもののなかでできるだけ悪い方向に向かわないようにカジをとっていくことが政治であるわけですから。

またマキャベリなんですかね。
萱野さんが言いたいのはむしろ、「海外の先進国はどこもそうやってる」、ということなのではないだろうか。
世界は、むしろ、差別に、みちあふれているではないか。堂々と差別をやればいいんだ。
こういう態度は、最近の、イスラエルの動きを思わせる。イスラエル世論の9割が、賛成なら、ああいうことをやるし、アメリカも実質、黙認である。

あらゆる承認においてこれは言えることだと思うんですが、承認される方は承認してくれる方は承認してくれる相手なり組織なりに尽したいと思ってしまうものなんですよね。国家に承認されたいという感情は、国家に尽したいという感情と常にセットなんですよ。

これは、ただ、一点を除けば、私は是認できる。それは、ここで言う、国家、が、普通の人、ならばです。
萱野さんは、(国家祭祀、つまり、)靖国にまつられて救われると思う人がいるなら、(実際に有効なんだから、)その現実を、肯定すべきだ、という。
萱野さんのこの誘導尋問に対する、高橋さんの主張は、単純で、「国家によるサルベージを疑う」ということではないだろうか。
だから、高橋さんは、極めて、啓蒙的だし、個人主義的だ。
萱野さんが、ずっと、言っていることは、個的な救済を、集団幻想で、「健康な人」にできるなら、それでいいじゃないか(少なくとも、暴走する個の、割合を減らせるのだから)。こんなところじゃないかな。
はっきり言ってしまえば、人は、差別的動物なのだ。世の中の再底辺に、自分がいると思うと、神経症になるが、自分の下には、もっと下等な、ムシケラが、たくさんいると思うと、とたんに「健康」になりやがる。きわめて、ニーチェ的だ。

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