アイン・ランド『利己主義という気概』

このアメリカの、大衆哲学者の、世間の評価は、おもしろい。

この哲学的エッセイ集は、1998年にアメリカの出版社ランダムハウス、モダン・ライブラリーが実施した「英語で書かれた20世紀のノンフィクション・ベスト100」投票一般読者部門において第一位を獲得したが、知識人部門においては全く無視された。本書を読み終えた方々ならば、この事実に納得がいくだろう。一見すると、「客観主義」なるものは、西洋近代合理主義の啓蒙思想の基本事項を、特にアメリカ合衆国の理念を、アイン・ランド流にパラフレーズしたものでしかないからである。

この藤森かよこという訳者あとがきの言うことが、すべてを尽しているのではないだろうか。
アメリカの大衆的な評価としては、リバタリアンの先駆者の一人、となる(なんてったって、一位ですから)。日本では、福島隆彦さんが注目したということだが(その辺はよく知らない)、彼女の主張がまったく、知識人の世界で相手にされなかったのは、おもしろい。
彼女は、人間の生きる目的は「計算」できる、と断言するところが、一般的な、リバタリアニズムと一線をかくす、特徴だ。つまり、長く生きながらえること(それは、遺伝子の複製も含めてであろう)。この辺りが、宮台さんとも似ている。訳者あとがきによれば、

リバータリアニズムは一枚岩ではなく、さまざまな立場があるが、自由に生きるための条件として、何を個人が求めるべきか、どんな人生を送るべきかは規定しない。魂の領域には踏み込まない。それは、個人の自由な選択(と自己責任)に委ねられている。しかし、「客観主義」は、理(利)性の行使により自らの人生に利益となる生き方をすることを最高の道徳的目的とし、その思想を共有する諸個人によって成立する社会は調和的なものになると断言する。

なんとなく、大衆的な支持を獲得できた理由が分かるだろう。自由主義を一見あいまいにする、大衆にとって分かりにくい部分に、実に簡単な「答え」を提示しやがった。また、アメリカの、超格差社会における、指数関数的に、いつまでも広がる資産の格差、そのエゴイスティックな行動に一見、正当性を与えてくれる言説のようにみえたのだろう(言ってみれば、日本の、桜井よしこ、や、曽野綾子みたいな存在じゃないかな)。
他者は、計算可能な存在だ。そこに不可知論はない。他者がどうあることが「幸せ」かを、勝手に他人が計算できるとするなら、ソ連社会主義、と何が違うんでしょうかね。つまり、ソ連社会主義を、別の形で、言い直しただけ。分かってないのは、どっちだ、ということなんじゃないですかね。

利己主義という気概ーエゴイズムを積極的に肯定するー

利己主義という気概ーエゴイズムを積極的に肯定するー