福永文夫『大平正芳』

自民党政治に、終焉のきざしが見え始めている。
政党支持率、どちらの党首が首相にふさわしいか、どちらにおいても、ダブルスコアで、民主党が圧倒している(麻生さんは、あと、20年総理をやるつもりだそうですがね)。
掲題の本は、戦後自民党政治において、鈍牛と呼ばれた、大平正芳をフューチャーする。
大平正芳が、戦後、自民党において、いかに重要な存在であるかについて、どれだけ、知られているだろうか。
たとえば、大平が幹事長の頃、日本共産党不破哲三さんは、次のように言う。

大平さんのアーウーは伊達ではなくて、国会での答弁にしろ、討論会での発言にしろ、議事録を起こしてアーウーを抜くと、きちんと筋の通った文章になっている、ということも、政治通のあいだでは評価されていました。歴代の首相のなかには、よどみなくよくしゃべるのだが、議事録に起こして見ると、「文意不明」という人もっっこういまいたからね。(中略)自民党の幹事長との接触では、討論会だけでなく、与野党折衝 - 幹事長・書記長・書紀局長会談も重要な場ですが、こういう点では、大平幹事長は、なかなか信頼できる協議相手でした。むずかしい問題でも、議論をつくして結論が出ると、その場できちんと回答を出す。そしていったん回答を出したら、確実に実行しました。その後は、自民党幹事長でそういう人物に出会うことは、まずなかったですよ。
(『私の戦後60年・日本共産党議長の証言』)

一体今、ここまで、野党中の野党の日本共産党に、評価される、政治家が果して、いますかね。
大平政治とは、どういうものであったのか。それを考えることは、なぜ、自民党政治が、このように、何十年も続きえたのか、いや、いわば、これだけの、長期の「平和」な時代がなぜありえたのかを示唆する。
もちろん、こういう言説に、多くの人は、違和感をもつであろう。自民党とは、そういう党ではないだろう。

1955年11月15日、社会党の左右統一から遅れること一ヶ月、保守合同が行われた。自民党は結党大会で次のような「党の使命」を発表した。

占領下強調された民主主義、自由主義は新しい指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が、主としてわが国の弱体化に置かれていたため、憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当り、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱体化させたものが少なくない(中略)現行憲法の改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。

それが鳩山 - 岸の民主党ラインに沿ったイデオロギーであったことは紛れもない。

55年体制、という言葉を、よく聞くが、大事なことは、自民党が、こういう、当時の民主党のラインだけでなく、当時の、「自由党の遺伝子」をもっている、ということである。それは、この党の名称からして、逃れえないものとして、刻まれ続けてきた。
大平正芳は、官僚出身の政治家であるが、官僚とは、なにものであろうか。官僚という考えは、東アジア政治の典型的な特徴。
官僚とは、「なにものでもない」者たちである。たんに、科挙の試験に受かった者。しかし、それは、本人たちが、嫌というほどわかっている。

両総務は私に、大平は百姓の生活を知らないと言われたが、あなたたち両君とも父君はわれわれの先輩代議士であり、名門の出で、裕福な家庭で育った方だ。それにくらべ私は、讃岐の貧農の倅である。私は少年の頃、夜明けとともに家を出て、山の中腹にある小さな田圃を見回ったのち、朝いちばんの汽車で通学するのが日課であった。家貧しく学費も少なく、給費生として勉強し、漸く大学を終えたのである。このような大平が農業を知らない人といわれることは心外である。(『人と人生』)

官僚とは、ひとつの民主的な制度の鬼子なのであり、むしろ、そう考えるべきなのだ。むしろ、元官僚の多くが政治家をこころざすことの意味、なんですね。
全共闘によって、倒閣させられた、岸宣介の挫折は、その後の自民党に、彼らが生き残るとはどういうことなのかを、嫌でも考えさせた。
大平は、池田隼人の元で、頭角をあらわし、田中内閣では、外務大臣として、日中国交正常化、をなしとげる。
この当時に、中国と国交の正常化をしたということが、いかに驚くべきことであろうか。言ってみれば、この国交正常化が、その後の、冷戦崩壊、東欧の民主化のさきがけとして強いていったと考えられないこともない。
もともと、こういった参謀としての才は確かに認められるところのあった彼だが、その彼が、トップとして、総理大臣として、国の運営を行う時期がくる。しかし、この時期は、オイルショックをはさんだ、混乱の時代であった。
もちろん、現実政治は、汚職にまみれた、カオスの世界。その場の、トラブル処理に終われるのが関の山。
しかし、政治は、理念を提示するものである。国民生活は、そんな、1、2年で、変わるものではない。その政治家が示す理念が、その政治家が、とうに、政治の舞台を離れ、他界した後にこそ、その遺思は、花開く。
大平政治を一言で言うなら、実にシンプルである。政治は何もしない。ただただ、国民が自らのオートノミーで独力で考え行動し道を開くのを見つめ続けるだけ。しかし、これこそ、孟子から続く、仁政のすべてであることは、わかるであろう。
彼の惜しむらくは、優秀な側近に恵まれなかったことではないだろうか。例えば、彼の9つの政策研究会のメンバーをみても、ちょっと迫力がない。
今の政界をみると、冷戦崩壊は、逆に日本に、戦中回帰を意識させることになっている。ジャパン・パッシングなら、勝手にやらせてくれ、戦中に、なにもかを戻したいのだ。これが、昔の民主党であり、安倍さんを始めとした、連中が、この道を隠微に模索し続けている。
しかし、これも、この前の参議院での歴史的敗北と、姿勢方針演説後の、安倍の政治投げ出しによって、いくつかの雑誌や新聞がヒステリックにわめけばわめくほど、自民党政治の、正当性の疑わしさ、選挙を逃げ続ける姿勢(こんなのクーデターと変わんないでしょ)の、人に頭を下げられない悲しい昔の民主党につらなる貴族「きどり」政治の、おぼっちゃんぶりが際立つだけというわけだ。
けっきょく、自民党も、ここに返ってくる以外に、道などない。読書家として、漢籍に精通した、当時の政治家たちをあなどるなかれ。
いきづまり、先がみえなくなるたびに、この頃の、福田、田中、そして、なによりも、大平政治、の理念に彼らは、返ってくる。別に、不思議なことではない。

大平正芳―「戦後保守」とは何か (中公新書)

大平正芳―「戦後保守」とは何か (中公新書)