桂島宣弘『思想史の十九世紀』

著者は、はしがきにおいて、奇妙なことを言う。

こうした戦後研究に対する反省と並んで、わたくしに徳川思想を「他者」と痛感せしめたものは、何よりも徳川日本の人々の言説自体であった。たとえば、本書で取り扱っている民衆宗教の教祖たちの言説であるが、拙著『幕末民衆思想の研究』をまとめる段階から、わたくしは民衆宗教の教祖たちの言説、あるいは所為は、近代以降の「われわれ」が、容易に解釈しえるものではないという思いを強くしていた。

もちろん、ここで言われているのは、徳川末期から、明治初期まで、旺盛に花開いた、如来教黒住教天理教金光教。まあ、一尊如来きの、や、黒住宗忠、中山みき、赤沢文治、こういった教祖が、その初期において、病気治癒などの霊験に期待したものだったことを言いたいわけだが。

金光教の最も初期の信者に属する高橋富枝は、教祖赤沢文治との出会いについて、次のように回想している。

そのころ世間で、「大谷の金神は大発興じゃが、あれは狸を使うのじゃ」と種々取り沙汰いたしますから、信心している自分も心元ならず、一度本元を見届けなければと、安政四年十二月末、即ち私が十九歳の時、初めて大谷に参拝して、教祖様が人々に教えをしておられるのを傍らから聞き、「これはなかなか尊い教えである」と、いよいよ一心を定め、五年正月二十日、娘と同道して大谷に参拝し、初めて教祖様にお目にかかりました(『高橋富枝技師自叙録』)。

ここには、赤沢文治が「大谷の金神」と称せられる「狸を使う」「大発興」の流行神として捉えられていたことが述べられている。同様の信者であった斎藤重右衛門の伝承などを「使う」流行神のそれとして見られているたということは、後に述べる近代以降の眼差し(「文明」の眼差し)とは異なって、何よりも「病気の回復・治癒」「家内安全・商売繁盛」などを実現する「霊験」ある存在として捉えられていたということを意味していた。初期の信者の多くは、「狸を使う」流行神的存在として文治を捉え、かつその「霊験」に期待を寄せて参集してきたのであった。

江戸末期における、大衆の生活とは、どのようなものだったのであろうか。これは「想像を絶する」。
彼らには、近代的な、医学の知識はない。日々悩ませられる病気などの、困難に対して、一見、なんらかの答えを用意されているようにみえたとき、それをどう思うであろうか。
このことは、一例にすぎない。
彼らは、毎日を、どんなことを考えて暮らしていたのだろう。どんなことを、毎日のよすがとしていたのだろう。
私たちは、ニーチェをもちだすまでもなく、簡単に現代の価値観や、ものの見方を、過去に投影しがちだ。
しかしそれは、遠近法的倒錯。過去は私たちの問いになにも答えない。語らない。我々にはその姿をかいま見ることはできるのだろうか。少なくとも、現代的な感情移入をそう容易には許してくれない相手であることに無自覚なものには、容赦なく、弁証法が叩き込まれるだろう。

思想史の十九世紀―「他者」としての徳川日本

思想史の十九世紀―「他者」としての徳川日本