柄谷行人「『世界共和国へ』に関するノート(10)」

それにしても、オバマの糾弾は、強烈であった。
公的資金をもらっていた銀行の、経営者たちが、膨大な金額のボーナスをむしりとっていたことに対する、オバマの強烈な弾劾。
今回の金融恐慌によって、多くのなけなしの市民は破産のうきめに合いながら、国の援助もなく、自らの自己責任によって、その受難と立ち向かおうとがんばって、けなげに生きている。そんななか、銀行だけは「例外」だと、早々と国が、ただでお金を湯水のように、そそぎこみやがる(まるで、国家が、天国に宝を積むために、宗教に献金している、かのようだ)。そうしたら、経営者たちは、これ幸い、と、国からむしりとった金を、一滴残らず全部自分の懐に入れやがった、というわけだ。
しかし、普通に考えれば、これはどうもあやしい。おそらく、ブッシュと銀行経営者の間で、なんらかの手打ちがあったはずだ。
しかし、それ以上にこの糾弾はすごい。このことのすごさが、あまり理解されていないようだ。いわば、オバマはこの階級を敵にまわす、と宣戦布告をした、ということなわけだ。
アメリカとは、どういう国、か。
日本は、敗戦によって、完膚なきまでにたたきのめされた。一切の、日本を暴走させた因習は、「去勢」された。しかし、日本国民は、今回の大戦が、むしろ、日本大衆のほとんどにとって、悲惨ななにかでしかなかったことをわかっていただけに(おいしい味をしめたのは、満州あたりで、奴隷貿易さながらに、奴隷的に現地住民を労働させ、稼ぎまくっていた、一部の国家エリートとグルになってた連中くらいだろう。そしてこういう連中に限って、やたら、天皇の「臣」を自称しやがる)、その自らの手足を縛る所業を自戒をこめて、甘受した。
それに対して、アメリカは、第二次世界大戦で、ほとんど(ソ連と)唯一と言っていいような、「勝利」をおさめた。それが、どういうことであったか。アメリカは、戦前の因習を、まったく反省することなく、続けてきた国だったということだ。
アメリカとはなにか。まさに、キューブリックが描いた映画「アイズ・ワイド・シャット」の世界こそが、アメリカである。
ほとんど天上人を思わせるような、小金を大衆からむしりとり続けた一部の資産家が、彼ら同士で、カルテルを結び、国家を操り、さらに幾何級数的に資産を増やし続ける。
彼らには、その小金が、いったいどれだけの大衆の、血と汗の結晶であるか、多くの人の未来への夢と希望を担って、今ここ、にあるのかを、理解しない。
恐ろしいことは、大学を含め、マスメディア、(もちろん、)国家中枢が、彼らの小金集めを正当化する、「イデオロギー」で、埋め尽されていることである。これこそ、グラムシがずっと取り組み、フーコーが考え続けた、イデオロギー装置としての、(人々の小宇宙さえ侵食し埋め尽す)権力装置、なのだろう。
言いたかったことは、政治とは理念を提示するもの、だということだ。オバマがこのように言ったことは、少なくとも、直近においては、何の変化も起こさないだろう。変わらないだろう。しかし、この認識は、少しずづ、人々を内側から変えていく。
この流れが早いか、それよりも、オバマの抹殺の方が早いか。
さて、掲題の、柄谷さんの連載も、とうとう、交換様式「D」の分析に入ってきた。

つまり、交換様式Dは、交換様式A・B・Cの結合としてある社会構成体のなかで、それに対する異議を唱えるものである。交換様式Dは、A・B・Cと異なって、現実的なものではない。とはいえ、それは人間の不満や欲望から出てきた想像物ではない。それはむしろ人間の意志や欲望に反して、いわば人間に対する「至上命令」として出てきたのである。

現実的でないとされるこの「D」(昔、こんな名前のSF読んだな)。しかし、これこそ、柄谷さんの、かかげる、アソシエーション、に直接関係する交換原理、だと。いずれにしろ、こういう「現実的でない」ものをあえて、並び称すことの理由なんでしょう。
この連載においても、あるパワー・ポリティクス的な、いくつかの集団が、歴史的、地域的、マクロ・ミクロ的に、指摘されてきた。
太古における、部族社会的な集団。これらを構成していたはずの、いわゆる家・家族(という最小の共同体)。その太古の部族社会から、形成されてきたとされる、現代における国家、また、現代におけるこの国家によって世界がおおい尽された後にみいだされる、家族(という最小共同体)、これら国家群の周辺にひっそりと営まれている、部族的なもの。
そして、それぞれにおいて、気になるわけである。なぜ、互酬的な太古の部族社会は、これほどまでに、強力に長い間、その構造を維持してきたのか。そして、それだけの強力なものから、それを突き抜けて、国家というものが、どのように発生してきたのか。そういった間において、家族という単位の最小共同体は、どのようなものだったのか。

たとえば、マーシャル・サーリンズはモースと同様に、互酬の原理が世帯にも貫かれていると考えた。その一方で、世帯における共同寄託と、世帯間の互酬をあくまで区別している。

ルイス・ヘンリー・モーガンは、家族制経済のもくろみを、「生きているコミュニズム」とよんだ。ぴったりした表現といえよう。というのも、世帯の切り盛りは、経済的な社交性の最高形態にほかならないからである。すなわち、「各人はその能力に応じ、各人はその必要に応じて」というわけで、成人からは分業をつうじて委託されているものが 提供され、成人には、いやまた老人、子供、能力のない人々にも、どんな貢献をしたかにかかわりなく、必要なものが提供されている。集団とは、部外者とはきりはなされた利害と運命をもち、部外者の意向と資質に優先権をおいた、社会学的な凝固物にほかならない。共同寄託によって、家族制の輪が完了すう。この円周が、外の世界との社会的、経済的な境界線となるわけである。社会学者はこれを「一次集団」とよぶが、一般には「家」とよばれているのが、これである。
(サーリンズ『石器時代の経済学』)

家族を、発想の根底におくことは、欺瞞的である。なぜなら、現在の家族が、現代の社会制度によって、あらしめられていると考えるべきであるからだ。太古から、これが、そのまま、保持されてきたと考えることは、許されない。

たとえば、近代資本主義社会の出現に関して多くの考察がなされた。国家の出現に関しても同様である。それらは、それぞれ、交換様式Bが支配的であるような封建的ないしアジア的な社会構成体から交換様式Cが支配的であるような封建的ないしアジア的な社会構成体への移行、さらに、交換様式Aが支配的であるような氏族社会から、交換様式Bが支配的であるような国家社会への移行を見るものである。だが、現世人類以前から続いてきた遊動的バンドから、互酬原理にもとづく氏族社会への移行もまた画期的である。にもかかわらず、それについて十分な注意が払われていない。

「遊動的バンドから、互酬原理にもとづく氏族社会への移行」に注目することは、おもしろい。互酬原理というのは、ちょっと、相当強力な制度、なわけでしょう。こんなものが、そう簡単にできるわけがない。

氏族社会に存する「平等主義」は強力である。それは富や権力の偏在や格差を許さない。それは強迫的なものである。では、なぜそうなのか。各人の嫉妬などから説明することもできないし、復古主義的な願望から説明することもできない。

この部分に唯一、答えを提示しえたのは、フロイトだという。まあ、エディプス・コンプレックスなんですけどね。
家族を、「生きているコミュニズム」と考えることは、多くの示唆を与えますね。コミュニズムは、非現実的なものだったわけではない。実際に、私たちは、このコミュニズムによって、大人になってきた。
もし、コミュニズムの反措定として、自由主義、がどうこう言っている人がいるなら、その人は自分がどうやって育ってきたか、その起源を忘れてるだけです。
コミュニズムは実は、だれもが最もよく「知る」社会システムだということです。だれもが、一番知っているんですから、成功しないはずがないわけだ。
コロンブスの世界一周によって、世界の有限性が人間にたたきこまれた後、一度、いや、二度の、(カール・シュミットシャンタル・ムフが言うような)敵対性、の全面衝突の経験をへて、もう一度、フロイト的な意味で、コミュニズム的な、世界同時革命が志向されたとしても、どうして単純に嘲笑できよう。
そんな不遜な態度をとるのは、上記のような、アメリカの天上人と、そのマインド・コントロールにかかっている、ほとんどの人類(ほとんどかー)。
カントは自由の実現のための「至上命令」にしか興味のなかったと言って過言じゃないと思いますが、その17世紀啓蒙思想の、さらなる鬼子であるマルクス、いや、そもそも、アダム・スミスの頃から、経済学は倫理学なんです。自由な社会、とは、コミュニズム的な社会のことなのであって、いや、むしろ、そういうものとして、ハイエクからさえつながるようなものとして、コミュニズムを考えるべきだということなのでしょう。それを矛盾しているというプロパガンダこそ、上記の、赤狩り伝統のマインド・コントロール

季刊at(あっと)14号

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