『バガヴァッド・ギーター』

岩波文庫の、上村勝彦の翻訳。
最近、以下のような新刊を読んだこともあって、いろいろ考えさせられた。

この解説本であるが、じつによくできている(下記の引用は、すべてこちらからになります)。
まず最初ですが、有名なところでは、ヘーゲルが晩年、この本に関連して、インド哲学に言及していることですね。

もしわれわれがいわゆる汎神論をそれの詩的な形態・最も崇高な形態、または人々がそうしたければ最も粗雑な形態において取り上げようと欲するならば、そのときは人々はそのためには周知のように東洋の詩人たちのところで見回すべきである。そうすると最も広範な表現がインドのものの中に見出される。ことことに関してわれわれに対して開かれている富のうちで、私は最も信頼すべきものとして手に入る『バガヴァッド・ギーター』から、そしてあきあきするほど詳述され繰り返されている長科白のうちで、最も適切な章句の若干を選び出す。(ヘーゲル『精神哲学』)

ようするに、ヘーゲルは、インド哲学は、汎神論、どころか、それ以下の、多神論であり、まったく始原でもない。(詩レベルの)「粗雑」ななにか。哲学は、あくまで、ギリシアこそが、すべての起源であり、それとドイツで、十分だ、と。
この本にもあるが、ヘーゲルの晩年、ちょうど、活版印刷による、西洋でのサンスクリット文献の出版が軌道にのり初めた頃で、この頃から、本格的な、インド哲学研究が、ヨーロッパで初まるんですね。
そして、最初のヨーロッパへの紹介が、この『ギーター』であった。つまり、ヘーゲルにとって、この本の登場は、あまりにも突然の「事件」だったんですね。

ただし、この議論の背景には一つの重要な事実があった。それは、クリシュナが人格神であることを認め、バクティ(信愛)の観念がいかほどかキリスト教の信仰のあり方と類似していることを、論者たちの誰もが認めていたということである。
しかし、ヘーゲルは、この点については完全に無視したままである。

この『ギーター』が、いかに、重要な文献であるか。彼は、まったく分かっていない。
あいかわらず、ヘーゲルは、見事なまでの、晩節の汚しっぷり、ですね。こういうところにこそ、その学者の本質が現れるでしょう。ほんと、醜くないですかね。彼は、精神現象学で、ひとつの頂点を極めて、そっからは、そんなこと言わない方がいいだろ、みたいなことばっかり言ってんじゃないかな。

そして、ヘーゲルが、そういった伝聞(イギリス人から聞いた話)の類いから導き出す結論は、きまって、主体的な自由をもった個人がそこにはいないということであり、そこに見られるのは一方的な「抽象化」と「無意識」だけだということである。もうひとつ奇妙なこと、しかし以上のことから考えればまったく合点が行くことを指摘しておこう。ヘーゲルは、ブラフマンにはこれだけ多くの言辞を費しながら、アートマン(自己)にはまったく触れないのである。

なにを言ってんでしょうね。ギリシャだろうが、キリスト教だろうが、全部、インド哲学の亜流じゃねーか。あきらかな、パクリっぷりでしょ。なんか、一個でも、インド哲学を超えるような認識が、ギリシャ哲学やキリスト教にありますかね(ちょっと暴論ですけど)。
また長くなってしまいましたが、次ということで、上記の本では、ガンジーが生涯をかけて、掲題の本を、自分の生きるよりどころとしたこと、そして、シモーヌ・ヴェイユが、34歳の短い生涯の晩年を、この本への思索にささげたこと、が紹介されてますね。
この二人の『ギーター』読みのまったく違うところは、アルジュナへの評価である。ガンジーはまったくアルジュナを評価しない。他方、ヴェイユは、非常に共感的にアルジュナによりそって考えていく。

「勝者はおのれの夢に生き、敗者はおのれのものならぬ夢を生きる」とは、ヴェイユが書いた唯一の戯曲『救われたヴェネチア』において、フランス人の亡命貴族ルノーが発する言葉であるが、アルジュナも、そしてヴェイユ自身もまた、敗者として、実現しない夢を抱えて戦う以外になかったのである。
一方、ガンジーの「夢」は、戦わないことではなかった。彼は、非暴力によって戦うことをこそ「夢」としたのである。その意味で、彼は勝者を生きたということができるかもしれない。

ヴェイユは、ガンジーの無抵抗主義を評価しつつも、そこに満足しないんですね。

非暴力は、それが有効な場合にしかよしとされない。例えば、かの青年が自分の妹に関してガンディーになした問い。それに対する答えは次のようであるべきだ。もしあなたが、暴力を用いずとも同じ成功の可能性をもって彼女を守ることができるというふうでなければ、力を用いよ。もしあなたがひとつの光の放射を持ち、そのエネルギー(すなわち、最も物質的意味におけるその可能な有効性)が、あなたの筋肉のうちに含まれる有効性に等しいのでなければ。(シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』)

ここにいわれる青年がなしたガンディーへの問いとは、「妹の純潔が、欲情にかられた男の餌食になりそうなとき、どうしたらよいのか」というものであり、それへのガンディーの答えは、「守るための最もよい方法は、妹とその男の間に怒ることなく割って入り、真正面から自らの死を受け止めること」というものであった。

非暴力についてのこの種の問いは、誰もが容易に予想するように、しばしばガンディーに対して繰り返されたものである。1947年1月27日、暗殺されるちょうど一年前にも、「婦人には辱しめを受けるより、自殺をすすめるべきでしょうか」と問われている。彼は、「自殺を選ぶべきだということは、歴然としています」と答え、続けて、「そのような状況下で自殺をよしとすることの背後には、自殺までも覚悟する心の持ち主ならば、敵に武器を放棄させるだけの精神的抵抗と、内面の純潔に必要な勇気を持っているだろうという信念があります」(『わたしの非暴力』)といっている。

無防備都市宣言をし、戦わずしてナチスに自らを開け渡したパリの精神的には無惨というほかない姿を目の当たりにしたヴェイユにとって、現に自分がおかれているその情況のなかでは、自らもまた力によって戦わざるをえないこともあると考えていたのであった。

ガンジーの言う非暴力がハンパなものでないことは知られていた。まったくもって、戦わない=戦闘的、なんですね。また、彼自身の思想がそう多くの人に理解されていたわけでもない。なぜ、ガンジーは、非暴力を選ぶのか。それは、彼の『ギーター』理解とも関係しているのだろう。
しかし、ヴェイユは違いますね。彼女は上記からわかるように、ガンジーを意識していたでしょう。しかし、そのガンジー評価はどこか、過渡的な印象を受ける。彼女は実践的な意味で、ガンジーを批判するしかない。じゃあ、なにが答えなのか。彼女もその答えを、『ギーター』に探そうとする。
やっぱり、ナチス全盛期のヨーロッパにおけるユダヤ人の精神生活は、想像を絶するものがあるんじゃないだろうか。彼女は、多くの同胞が実際にナチスの餌食となっていく同時代を生きたわけで、それを引き受けて生きるという精神的な苦役というのは、やはり、苦しい人生だったんじゃないでしょうか。
最後ですが、自分がちょっと、掲題の岩波文庫を読んだ印象を書かせてもらうと、まず、なぜ、この本が、これほどまでに、長く、多くの世界の人に読まれてきたか、なんですね。
アルジュナは、これから戦争に向かうんですけど、相手に自分の親族がいるなどの理由から、急に、なんで自分はこんな人殺しをやんなきゃならねーのか、で、やる気を失くした、って話なんですね。そうしたらなぜか、クリシュナという(後で分かるんですが)神が、自分の役目をはたせ、と説得を初める。
その説得が長いんだ。最後は、どうも説得が成功したみたいなんですけど、もう、長くて、なんだかわかんない。
普通にストーリーをみたら、たんなる、お国のために、人殺して死ぬのが、国民の義務だ、みたいな話なんです。
でも、そう読んだらおもしろくない。これはむしろ、世俗に生きる多くの大衆への言葉なんだろうな、と考えるべきなんですね。
なぜ、この世界は汚れ、無意味であるのに、その汚濁にまみれた、仕事の片棒を自分がかつがないといけないのか。
明らかに、自分の目の前にあるこの仕事。「人類史」的意味なんてねーよな。恥かしくなるくらい。こんなことやって、毎日の飯食って、なにやってんだろ。オレの人生無意味だ。
もう、働くのをやめて、森にでもこもって、自堕落な生活をするでいいじゃないか。
しかし、そうではない。この世俗の世界の、その目の前にある仕事を行うことは、無意味ではない。それが、「実践」なんだ。その実践をつみ重ねて行く過程で、世界の方向を目指すものに向かうよう、微力でも働きかけていく。
日本にも多くの向こうの人たちが、働きに来ていますよね。まず、ほぼすべての人がこの本を読んでるんじゃないだろうかな。はるばるこんな辺境まで来てくれるのも、きっと、この本に励まされ、勇気をもらって、なんじゃないですかね。

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)