秋吉良人『サド』

サドというのは、いわば「つまづきの石」である。それは、どういうことか。今まで、サドについて、多くの言説がつむぎだされてきた。多くのポストモダン哲学者が、実に、熱く、サドについて語ってきた。
日本においては、澁澤龍彦の翻訳が有名だが、現状、それくらいしかない情況はおもしろい。彼には江戸遊廓のような、耽美的趣味があり、自分の趣味に合うようにみえる部分をひろってきて、どうこう言っているにすぎない(実際、抄訳ばかりだ)。逆に言えば、それだけキワモノだということだ。
サドは、挑発する。しかし、彼の挑発は、本丸への直接攻撃だ。同時代のさまざまな哲学者(ホッブス、ルソーや、ドルバック、など百科全書派)の言説を、そのまま、パクりながら、換骨奪胎し、揶揄する。その手際に、みな、イカれる。
たとえば、サドは、ルソーの言う平等の「起源」を疑う。
「自分のしてほしくないことを人にするな」。
彼は、まさに、その逆をやることによって、性的な興奮をおぼえる人間を、これでもかと描く。ということはつまり、そのこと(快感)によって、人間は、「幸せ、になり、幸福」、になるではないか、話が違うだろ、というわけだ(つまり、これが、自然の哲学)。
サドは、ルソーの言う平等が「憐れみ」と同値である、ことを指摘する。しかし、その憐れむという感情はなんなのか。なんのことはない。そう自分がされることを恐怖するから、逃れようとする意志のあらわれ、にすぎないではないか。もし、自分が絶対にその立場にたたされることがないと思えるなら、憐れみなんて感じないだろう。どうして、彼の書く小説の鬼畜たちがその他者への暴力への欲望に素直に生きてきる姿を馬鹿にできるというのか。自分の「自然」な感情に素直に生きているほうが、たんにそういう環境に生きざるをえないから、という理由でしかない原因から、「平等が大切」などと嫌々うそぶいている連中と、どっちが真に人間的な生き方か、というわけだ。
いわば、こういった ルソーとホッブスの哲学の衝突を、自らの頽廃小説の正当化に使っているというわけだ。
掲題の著者は、この認識は、『アメリカの民主主義』を書いたトクヴィルと、シンクロするもので、興味深く、指摘する。

貴族政体のもとでは、各身分内のメンバーたちは自分たちを同じ家族の一員と見なし、民主社会の市民間では見られないほど、お互いに対して持続的かつ活発な「共感(シンパシー)」を抱いている。しかし異なった身分間ではそうはいかない。彼らは自分たちの集団だけの意見、感情、法、習俗、生き方、をもっていて、ほかの集団のメンバーたちとは、まったく「似て」いない。「彼らが同じ人類に属していうと考えることはほとんどない。したがって、他者が感じていることをよく理解することも、自分たちを基準にして判断することもできないのである。」「現実の共感は似かよったsemblables人々の間にだけ存在する。人は自分の社会階級のメンバーの中にしか同胞semblablesを見出さないのである」。
トクヴィルは、娘や友人への情にあふれた書簡を多数残して文学史に名をとどめたセヴィニエ侯爵夫人が、そうした手紙の中で、新たな課税に抗して反乱を起こし、例のないほど過酷な鎮圧を受けたブルターニュ地方の民衆の様子(寝床も食物もなくさまよう妊婦、老人、子供たち。裂かれた四肢を町の四隅にさらされた反乱者。縛り首にされる60人の都市民等など)をおかしげに報告していることを紹介し、自分たちの時代には、いかに冷酷な人間でもこうした残酷な冗談を冷淡に書きおくることはできないだろうと言います。

トクヴィルの主張としては、民主主義のこの今の時代においては、どんどんと、こういった貴族主義的な素朴な差別は、なくなっていかざるをえないし、そうなるだろう、ということですね。それだけ、民主主義は強力だ、と(トクヴィル自体は、貴族制を擁護したわけですが)。
さて、掲題の著者は、サドが、この倒錯した性行為に、「労働 travail」という用語を使うことを重要視します。それは、当時の、「常識的」な考えに、対応する、というわけです。
当時、人が生きる、とは、善く、生きる、ということ。それはつまり、国家のために生きる、ということであったわけです(キリスト教とは、つまり、国家を直接名指さないための別名でしかない)。よく考えてください。まだ、江戸時代もいかないくらいでしょう。ヨーロッパも王国林立の時代。国王の役に立つように生きることこそ、「善く」生きることであった。それはどういうことか。自殺の奨励、である。国王のために子供を生むことは善であり、労働は国王への税金を献納する意味で善。逆に、国王にとって、役に立たないなら、死してその、無駄を無くす方こそ「善い」。ここから、子供を生まず、労働をしない、老人は、まっさきにその粛清対象として槍玉にあげられた、というわけだ。
サドの風刺が、彼の言う「自然」への生なら、その倒錯した性行為は、「自然」のための善き「労働」というわけです。
操を守り、高貴で純潔な半生を生きてきた、うぶな女性を、鬼畜男は、性の暴力、陵辱によって、どん底まで、汚し、「堕落」させる。
人間を、民主的に、平等に扱う、という、その目的となんの関係もないものに、つき動かされているだけの、「欺瞞」。そんな偽物をうち捨てるとは、なんの価値も自分が感じていないものを、その「価値」のとおりに扱う、ことだろう。そこから、なんの特別な意味もない、その辺にどこでもいる、女性の一人や二人への、虐待は、むしろ、「正しい」とされる、というわけだ。
そもそも、そんな行為それ自体になにかがあるかなど関係ない。最初から、女性の体を痛めつけるかどうかの問題ではない(事実、その性的行為は、いずれ、「あきる」)。それは、社会的に価値があるとされているものへの挑発でしかない。これに価値を感じ、汚されたとショックを、相手の女が受ければ受けるほど(受ける人がいればいるほど)、サドの「自然」は喜悦し興奮する。
サドは、自らを、古代ストア哲学アパシーの体現者と自称するが、そもそも、古代ストア派の、アパシーとは、賢者のなにものにも動じぬ、心の静かさであり、さとりの到達点であろう。それと、鬼畜が、平然と、弱者を虐待するのと、なんの関係があるというのか。サドの挑発は、ずっと確信犯的なのだ。
サドの倒錯は、最初から、社会に生きる一般人への告発、一種の、ルサンチマン、なわけだ(そうでなかったら、こうやって、世の中に、小説を発表しない)。
たとえば、サドは、孤独、孤立を、なによりも価値あるもの、とする。女性を、暴力によって、森などの、一般社会と隔絶した場所に隔離する。そのことを彼は、社会から「切断」される、という。それが、本来の、自然、だと。
しかし、これは、ルソーの言う「自立人」とも、もっと一般的な、自由主義とも、なんの関係もない。むしろこれは、彼の社会への闘争の姿勢、なのであって、それを柄谷さんの初期の論文では、ルターだったかカルバンだったかの、宗教運動と、並行して論じたんでしたね。

柄谷行人「サドの自然概念に関するノート」

思想はいかに可能か

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それにしても、キリスト教がどれだけ、西洋において、大きく人を支配してきたか、をあらためて考えさせないだろうか。
ホイエルバッハの唯物論を、マルクスは、神の位置に「自然」をもってきたものにすぎない、と批判したが、同じことは、サドにも言える。ヘーゲル弁証法はここでも生きているというわけだ。正、でなければ、反。キリスト教を否定しているつもりが、もう一つ別の「自然」というキリストをみつけたにすぎない。

サド―切断と衝突の哲学 (哲学の現代を読む)

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