三隅治雄『踊りの宇宙』

この前、女子の、フィギュア・スケートをテレビでやってた。
日本のジャンパーは、伊藤みどりの伝統なのだろう。3回転半、だ、4回転、だ、と、本当の天才でもないと、ちょっと挑戦することさえ、ばかばかしい、と思うような、難度の高い大技を、まるで、求道者、のように、挑戦していく。
ただ、どうしても、女性は、ハイスクールくらいから、女の体になっていくので、小っちゃい頃の男の子のような体だった頃とは違って、難しいみたいだ。
でも、失敗しても、失敗しても、何度も、何度も、立ち上がり、また、挑戦してくる。その姿は、なにか、人生を感じないだろうか。そんな姿が、好ましいのだ。
逆に、優勝した、キム・ヨナ、は、もう、ミョンウォル(ファン・ジニ)にしか見えない。年齢のわりに、大人っぽすぎる。まるで、鶴の舞い、だ。
前に、ドラマ「ファン・ジニ」を見たことについては、ここに書いたが、作品としては、いつもの、韓流ドラマで、支離滅裂の、ワンパターン、だったと思うが、こういう韓流時代劇は、日本との、関係のあまりにも濃密な国だけに、いろいろ、考えさせられる場面、にどうしても、つきあたる。いろいろな、想像力を、どうしても、喚起させられる。
特に、最後の2話は、原作との関係を考えても、重要だ。原作において、チニは、諸国を放浪し、大変な苦労をするが、それは、彼女が、さらに思索を深めていく上で、重要な時期と描かれる。
多少、その姿を想像させる展開になる。ミョンウォルは、真の「舞い」を求め、街の中に出ていく。舞いによる喜捨だけで、食をつなぐことを、ソ・ギョンドクに誓う。しかし、喜捨は集まらない。食事を口にできない日々が続く。
その彼女が、最後に、見つける真の「舞い」とは何か。
まさに、大衆の中に生きる、「踊り」である。
その姿は、...。なんと言ったらいいのであろう。「楽しそう」なのだ。実に、楽しそうに、おもしろそうに、踊る、ミョンウォルは、「真の」舞い人、にそのときなったのだ。
なんで、こんなことを書いたのか。
もちろん、いろいろ考えさせられるからだ。
黒沢明の代表作「七人の侍」は、日本人なら、だれもが見ている映画だろう。しかし、この映画を見た日本人は、びっくりするんじゃないだろうか。とにかく、登場人物が「汚い」のだ。百姓たちの姿は、ほんとうに汚い。汚いが、それは、つい、ほんの少し前の、日本には、どこでも見られた光景なのだ。
そして、驚愕は、エンディングだ。もちろん、多くの人は、なんでもなく、見逃したであろうが、ものすごい光景が展開される。それは、その百姓たちが、豊作を祝って、太古や笛の音楽にのって、踊り回る姿だ。
これは、なんなんだ!!!
掲題の本を読むと、踊りについての、歴史的な起源を問う。
もともとの、その漢字の語源的には、身内が、死んで驚き、跳び跳ねる、みたいなところのようだ。つまり、ある感情の猖獗が、身体行動に、現象として現れる。
これの重要なことは、その音楽との、非常に身近な関係だ。音楽のリズムは、この人間の感情の波長と、どんどん、シンクロしていく。波が重なり合い、増幅し、人間の感情はさらに、激しさをます。「おどり出す」のももうすぐ、なのだ。
恐らく、はるか太古から、なんらかの、そういうものはあったであろう。当然である、人間に心臓があり鼓動を打ち続けている限り。
しかし、日本人は、その感情を、平素は、まず、外に現わさない。

もともと日本人は、欧米にくらべると、非言語表現を得手としない民族と見られてきた。現に、欧米人はわれわれを無表情民族と評する。顔の表情からも、身振り手振りからも、意志や喜怒哀楽の感情が容易に読み取れないと嘆くのである。
逆に、われわれは、欧米人の身振りやしぐさを見て、オーバージェスチャアだと、批評する。

一方、こと言語表現となると、俄然、日本人は、能力を顕示することに情熱を賭けた。肉体にものを言わせなかったぶん、意志や感情を言語によって仔細緻密に表現するのに努力した。

それを著者は、言霊の伝統で、説明しているようですけどね。
日本の歴史の最初の、卑弥呼の時代においても、そうであったであろう。『古事記』には、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の姿をこう記述している。

古事記』はそのさまを「ウケ伏せて、踏みとどろこし。神懸かりして、胸乳を掛き出で、裳緒(もひも)を陰部(ほと)を忍(お)し垂れき」と記していう。直訳すれば、鈿女命が「中が空洞のウケを激しく踏み鳴らし、興奮するままに神懸かりし、胸乳も顕わに、裾前を広げて、丸出しの陰部に裳の紐を垂らした」というほどのものであった。

これは、日本の神道における、巫女の、トランスにおける、一種の踊り、ですからね(古事記がすでに、そういうものを重視していることは、興味深い)。
日本において、今日本でみられるような、本格的な、踊り、の起源と考えられるものは、一編上人の、踊り念仏、なんだそうだ(ことわるまでもないが、中世において、神道と、仏教に、なんの境界もない、当然だ)。

はねばはねよ、をどらばおどれ、はるこまの、のりのみちをば、しるひとぞしる

「跳ねたければ、いくらでも跳ね、踊りたければ、いくらでも踊ることだ。春駒のように。そうすれば、春駒に乗るではないが、仏陀の法(のり)の道を、会得することができる」

ともはねよ、かくてもをどれ、こころごま、みだのみのりを、きくぞうれしき

「何をさておいて、ひたすら踊り跳ねることが大事なのだ。そうすれば、心の駒は乗りに乗って、やがて、阿弥陀仏の法の声に触れる歓喜を味わうことができる」

当時は、ものすごい大衆運動だったみたいですね。大変なことになっていたようだ。
よく、日本のロックは、みっともない、といわれる。そもそも、子音中心の、イングリッシュ・ロックは、リズムのとる場所が、違う(一時期流行った、あれ、だ)。

遊牧・牧畜の社会では、五拍子、七拍子など奇数系のリズムが多く、またその伝統的な踊りも、地面から離れる意識すなわち高く跳び上り、激しく廻転するなどの特性がある。一方、水田稲作農耕民では、二拍子、四拍子など二拍子系のリズムが中心であり、その踊りも身体の重心を下におき、地面に並行した意識とともに、手の振りや顔の表情が重視されるという特徴がある。(藤井知昭「文化としてのリズム考」『民族とリズム』)

(この仮説自体は、あやしいみたいですけど、とにかく、)日本語は、むしろ、ドイツ語の、オペラのようなものの方が向いている。イングリッシュ・ロックは、ほとんど、子音のマシンガンのようで、あんなもの、日本語でやれるわけない。逆に、日本語は、毎回、母音をつけなきゃなんないから、どうしても、母音の方をクリアに発音しようというモチベーションがなくなる(だいたい適当に母音をくっつけておいても、前後の関係から、わかるんでね)。ほとんど、なにかの、雑音、にしか、向こうの人には、聞こえない(つまり、ハーシュなんだそうだ)。日本の最近の流行歌も、サビにくると、全部、英語ですらね。そうだろーな。
ミョンウォルは、畑仕事をしている百姓の仕事を手伝いながら、百姓らと、小太鼓や笛の音に合わせ、みんなで、畑で、踊る。みんな、勝手に、踊っているのだが、実に、楽しそうに、笑顔で、笑い声をあげて、踊っている。そして、なにより、ミョンウォル自身が、その踊ってることが、楽しそうである。キーセンという生き方、宿命に、ほとほと、嫌気を思いながら、ニヒリズムの中を生きてきたその人生は、この踊り念仏、真の、トランス、に、生きる悦び、を感じる。美しい女性の、そういう姿は、どきっとする。
他方、日本の、浅田、安藤のジャンプ陣をどう思うであろうか。彼女たちは、明らかに、大人になることを拒否している。彼女たちが、子供の頃、まわりの子供をどんどん離して、どんどん、ジャンプがうまくなって、跳びたくて、跳びたくて、楽しみで、しょうがなくスケートの先生にしがみついていた姿が目に浮ぶではないか。
二人よ。ミョンウォルのように、師匠が生涯をかけて作った、鶴の舞など、その場で、焼き捨てるんだ。大人の典雅な踊りを拒否しろ。そんなところに真実はない。形だけの踊りなど、醜い。大人になるな。ただただ、今思う感情を素直に表現すればそれでいいんだ。
ただ、回る。
その回転が、一回でも多ければ、それだけ、仏陀の法(のり)の道の、春駒に乗って、生きる喜び、その一瞬の、生の歓喜、はいや増し、日本中のすべての人を、生きることの踊り、ムーブメント、へとつき動かす。

踊りの宇宙―日本の民族芸能 (歴史文化ライブラリー)

踊りの宇宙―日本の民族芸能 (歴史文化ライブラリー)