戸田金一『国民学校』

私の、(自称、E・ホッファー譲りの、)大衆運動研究は、いつ終わるやら、ですが、そんなことはともかく、前から、素朴に思っていたことがある。
それは、日本の、むしろ、若者向けの流行歌に、自分たちの親、または、親の世代を描いたものが少ない、ということだ(もちろん、演歌なんかでは、いやというほど、食傷気味なくらい、あるが)。それは、昔から、ずっとそうだ。
そもそも、子供たちは、親、または、その親世代、をどう思っているのだろう。
たとえば、坂口安吾は、父親との対決こそ、その小説の原動力、の部分もあった。親とは、「階級」である。つまり、自分が、金持ちの家に生まれたか、貧乏だったか、の直接的な原因であり、あまりにも悲しくなるくらい、その親はその階級を「代表」する生き方をしている。
そういうのをみると、どうも、人間には、個性なんてものはないみたいだ。
おそらく、そういうことなのだろう。子供たちは、親階級のエゴイスティックな所作と対決する。家を跳び出し、気心のしれた「仲間」とつるみ、前をみて、つっ走る。
若者が自己主張するとは、どういうことか。
親という偶像の「破壊」である。
彼らは、自らのオートノミーによって、親の生まれたときからの、マインド・コントロールをふり払い、家を出て、おのれの「居場所」を探す。自らが、生涯の、忠勤を捧げる、彼女、と出会い、「大人」になっていく。さまざまな通過儀礼のなくなった現代において、子供たちは、自らでそういった、儀式を選んでいくということ、なのだろう。
しかし、私は、今回は、こういうことを言いたかったわけではない。逆である。「親」たちとは、なにものなのであろう。親とは、われわれの「ルーツ」である。そこから、自分たちは「来た」。
親は、たんなる親ではない。お前たちが、いったい「何者」なのかを、あらわす、唯一の手掛り、なのだ。
お前たちは、なんで、ここにいるのか。なんで、こんなところを、ぶらついているのか。
そこには、憎んでも、憎みきれない、生、の連鎖、がある。お前の親は、だれかの、親であり、そいつはまた、だれかの親であり、...。
お前のその先祖たちは、どんな所業によって生き残ってきたのでしょうね。そういう意味で、仏教は正しい。我々は、数々の罪業、あらゆる手練手管を使い、弱者を踏み台にして、サバイバルしてきた鬼畜の子孫。そういう鬼畜たちが作り上げた、そういう鬼畜たちが、不遜にも後世に唯一残そうとした「作品」。
お前のその無邪気な笑顔の裏には、数えきれぬくらいのお前の先祖に裏切られ、だまされ、お前の子孫への恨み、その一心だけで、この世への未練を残し、逝った多くの、亡き人たちの、成仏したくてもできずにさまよう、なにかが、無限のなにかをなしている。
我々は、なんの特徴もない、どこにでもいる、罪深き衆生。どうして、自分に、誇りなどもてよう。
しかしそれは、別に、不可知論、ではない。いやむしろ、そう考えるべきなんだ。
掲題の本では、戦時中の、学校で実際に、何が行われていたのか、それをとりあげる。しかし、これは「困難」をきわめる。
そもそも、日本は、敗戦とともに、「あらゆる」書類を、焼き尽した。
証拠隠滅、である。そして、これは、「もちろん」小学校にも、およぶ。
実際、戦前から続く学校の、校史を調べてみるがいい。見事に、戦中が、真っ白、なはずだ。
彼ら教師たちは、つい何日か前にやっていたこと、言っていたことを、まるでそんなことなどなかったように、平和がどうのと言い始めやがった。
アジア全土の多くの死屍累々たる、死者、お前たちの「洗脳」によって、累々たる、アジアのただ平和に生きたいと願っていただけの大衆を、かたっぱしから殺しやがった、鬼畜の所業をしていった果てに、自ら返り討ちにあい死んでいった、この学校の生徒たち。
ほんとうに、お前たちは、自分がやったことがなんだったのかを、わかっているのか。お前の話した一言一言に、励まされ、どれだけ多くの子供たちが、戦場の「鬼」と化し、多くの無辜の魂をその手で奪い、返り血を浴び続け、最後は敵の刃の露と消えていったか。
それをなんで、一日で、「ひっくり返す」んだ。
お前の一言は、死んだ若者の、墓前に向かって、「あれは嘘でした。なんちゃって」と、最近はやりのお笑いタレントのように、ジョークですまそうっていうのか。
その時、お前たちは、人間として「死んだ」のだ。
お前たちは、「決して」このまま、安らかに死ぬことは、許されない。なんらかの「落とし前」をとることなしに、どうして、お前の魂の安眠などありえようか。
戦中末期の、テンノーアラヒトガミ宗教、をなめてはいけない。「本気」で、人間が人間を「支配」しようと思ったとき、いったい、どこまでのことをやるのか。死ねの一言で「嬉々として」笑いながら、自らの命をさしだす人間というロボットを人間が作ろうとしたとき、人間は一体、どこまでのことをするのか。人間にはリミッターはないのか。

1941年4月1日、この日の植田国民学校は、まず上級生たちの始業式をすませ、そのあと一年生の入学式を行っている。もっとも子どもたちも親たちも、村の人たちはだれも入学式とはいわない。いつもの年のように、親しみをこめて、「饅頭もらい」といった。

この学校には、創立百周年記念誌『忍の沢』がある。それに手記を寄せた伊藤生子(1926年卒)は「もう、なんぼねれば、まんじゅうもらい----と、指折り数えて......4月1日を、入学式といわず、大人も子供も、まんじゅうもらいといった」と書き

この年の同校初等科一年生は、男子44名と女子61名で、共学の甲と乙二組に編成された。雨天体操場での入学式をおえた新入生たちは、担任と手伝いを合わせた4名の女先生に導かれて、廊下づたいに御影室にやってくる。ここは、校門から見るとちょうど真正面にあたる玄関、職員昇降口となる部分の、奥まった場所である。
ここに誘導されてきた新入生たちは、祭ってある神に拝礼をし、謹んで本校の入学の報告とした。別の記事の表現に「報告祭」と書かれているのは、このためだ。
学校の一画に、家庭における神棚のように、神を祭った神聖な場所が設けられていたのだ。この学校では前年11月、校庭に奉安殿が新設されているから、ここはそれとは別の聖域である。
御影室に祭られた神体、拝礼の対象となったものは、天皇と皇后の肖像写真だ。この写真を偶像として飾ったことから、この場所は御影室といわれた。
この写真の主は昭和天皇と現皇太后である。前者は当時の表現で今上陛下だ。生きた人間がそのまま神として祭られ、崇められた。
そして御影に対しての新入生の拝礼がすむと、かれらは先生から「饅頭----神前に於いて配る」と、この場所で各個に渡された。これで明らかだろう。饅頭は、たんなる入学祝いではなく、だから教室において機械的に配られたのではない。教室でそれを受け取った二年生以上の上級生たちにとっては、たんにお祝いの品の意味で十分だろう。けれども新入生については、その意味が相違している。
これはまぎれもなく天皇からの下され物、恩賜の品に擬えて扱われている。この学校では新入生に対するいちばん初めの教育は、かれらの眼に天皇の肖像を映じさせ、その主が神であることを脳髄に焼きつけ、忠良な臣民となる勉強をはじめますとの、入学の報告(誓い)だ。饅頭はその効果的な演出の小道具だ。

お兄ちゃん、お姉ちゃんたちが毎日通っている、学校に自分も今日から行ける、その喜びに、踊りまわっていた新一年生は、そこが究極の国家イデオロギー装置であること、自分がこれから何年にもわたって、イデオロギーという麻薬注射をうたれ、死によってさえ、逃がれることを許されないような、強力な、幻影を四肢にすりこまれることになることを理解するには、あまりにも幼すぎた。
後の戦後世代は、この戦中世代に、さまざまな反応を示してきた。徹底して、この世代の「罪」を告発し闘った、60年代の、全共闘運動。しかし、その後の、おじいちゃん、おばあちゃんになった世代では、逆に、彼ら戦中世代を「理解」しよう、という反応を示そうとするようになってくる。
しかし、その作業は「悲しい」。戦場から返って来た戦中世代は、毎夜毎夜、彼が殺した人々の、悪夢に死ぬまで苦しめられる。子供たちは、夜中に突然、恐しい叫び声をあげ続け、狂ったように震える声を、ふとんの中で聞いて、育つ。結局、彼ら戦中世代は、死ぬまでその体験を下の世代に話すことはなく、冥土にもって行く。子供たちは、そんな中でも、なんとかその苦しみを、苦しみの先を理解しようとする(まさに、隔世遺伝だ)。決して自分の中からはわきおこってこないが、間違いなく、自分のおじいちゃんの中にはある何か。
この世代の子供たちの特徴とは、なんだろう。さまざまな、校内暴力の時代から、悲しいイジメの時代。はっきり言えることは、自己主張がないことだ。実に、この世代は表現者が少ない。自分に自信がなく、決して自分から、この社会に働きかけていこうとしない。自分の価値に常に疑問をもち、人からの評価を求めも、自分を大切にもしない。悲しくも、自分を愛していると言ってくれる人を、自分がこんなにも求め必要としているのに、信じられない。それが「愛」であることを、最後まで受け入れることができない。
自分が、おじいちゃんの瞳にのぞき見た、深い闇。
いつも自分にだけはなぜか特別にやさしかったおじいちゃんは、最後まで、その暗闇の正体を教えてくれることはなく、自分を残して、あの世に行ってしまった。しかし、そののぞきこんだ子供の瞳の裏には、間違いなく、その闇は、焼き付けられていて、あの日のままだ。

国民学校―皇国の道 (歴史文化ライブラリー)

国民学校―皇国の道 (歴史文化ライブラリー)