福岡伸一『動的平衡』

何度か紹介した著者の、最新作。
著者は、一時期、ITブームの後に流行した、バイオテクノロジーブームが、結局のところ、うまくいっていない現状について、注意を喚起している。

世界初のバイオ企業ジェネンテック社が設立されたのは今から約30年前、1977年のことだった。ジェネンテックは最新の遺伝子操作技術を売り物とし、貴重な薬品などの生産を約束していた。カリフォルニア州立大の研究者たちが自分たちの発明を商業化したものである。実際、同社の株は公開されるやいなや瞬く間に値上がりし、彼らは文字通り一夜で億万長者となった。
それ以降、現在までに星の数ほどもバイオ関連企業が勃興した。皆がジェネンテックの成功を目指したのだ。しかし、今日、見渡してみると、実際に成功したのは数万社のうち五指にも満たない。

結局、生物を、なにか、デカルト的な、機械、として把握することに、限界があるのではないか。
著者は、以前紹介した本でも何度も繰り返されていたが、生物が、動的平衡、という仕組みによって維持されていることを、何度も強調する。
ある、一つ一つのタンパク質に、標識(色)をつけて、外からでも、トレースできるようにしたものを、ネズミに食事として摂取させる。そのとき、そのタンパク質は、どんな移動をしていくか。
驚くべき結果となる。そのタンパク質は、食事として、体内に吸収された後、なんと「全身」に広がる。全身が、その標識色、になる。それだけではない、その全身に広がった標識は、ほどなくして、一つとして、なくなるのだ。
一体、これは、なんなのだろうか。
絶えず、その自らを構成している分子を、新たに入ってきたものと交換を繰り返しながらその全体としての、統一性を保ちつづける、そのホメオスタシス
自然界は、エントロピー増大の法則、というものがある。自然界は、なにもせず放っておかれる限り、絶対に、複雑な方へ、トランスホームしていく。さまざまな万物を支配する法則が複雑にぶつかり合い、以前は単純な秩序をもった、構成であったもの(例えば、死体)も、時間とともに、腐敗し、ドロドロに崩れ、カオスへと、突き進んでいく(つまり、またまた、仏教は正しい。おごる平家は久しからず、である)。
人間が、有限の期間においても、そのエントロピーの法則に逆らい、秩序を保てているということは、これに「逆らう」運動を、一切のミクロのレベルから、徹底的に行なわれていることを意味している。人間を構成している、あらゆる細胞が、上記の新陳代謝によって、絶えず、自らを一瞬前には構成していた(エントエロピーの上がった)分子を廃棄して、新たなものに交換をし続けている、といるということは、そういうことだ。
さて、なぜ、バイオテクノロジーは、うまくいかないのであろうか。
以前、利己的遺伝子の話を書いたが、この地球上で、この生物の自己複製運動が始まったときから、現在の、人間のような、性生殖のような形の、自己複製戦略が、とられる高等生物が生まれるまで、自然界は、そもそも、どのようにして、その「プログラム」を作ってきたのか。こういう、問題を提起することは、強烈である。
我々は、当然「機械」である。
しかし、もし「機械」ならば、自らのコピーを、同じ「手続き」によって、作れなければ、それは機械とは言えないのではなか。ということは、どういうことか。そもそもそも「設計図」ってなに?ということだ。
ここに、非常に重要な概念が潜んでいる。
恐らく、プログラムは存在する。それは、よく言われるように、DNAと考えていいだろう。しかし、それは、...。なんて言ったらいいのだろう。一種の、「経時的に使われるトリガー」と呼ぶべきもの、だと考えるべきなのだ。
このイメージは、最近の、遺伝子プログラミング、の考えに近いのかもしれない。以前紹介した、LISP言語、である。
ある一瞬における状態(メモリ上のデータの状態)、と、その時点の、プログラミング言語から作られた、命令群、があるとする。もし、その時点で、以下のような命令が実行されたら、どうなるでろうか。
「その命令群にある、ある命令を、別の命令ととりかえろ」
これは、なんだろう。いわば、公理的集合論の、公理が、時間とともに、変わっていく、ということであろうか。
もはや、自明であろう。
ここには、「確率過程」があるのだ。
このような過程が、地球上の生命誕生の瞬間から、続けられてきた。
恐ろしい話である。つまり、なにが恐しいか。もともとの、質問はこうであった。「プログラミングは?」。なんて言ったらいいんでしょう...。
当然であるが、上記のエントロピーの法則は、この「地球」そのものにこそ、あてはまる。これだけ長い間、この地球が、上記のエントロピーをどこまでも、地球外に捨てながら、これだけの安定した環境を持続してきたこと、それが、その上に存在する、人間の進化、と対応している。つまり、生物のホメオスタシスは、この地球のホメオスタシスと、生命が誕生した瞬間から、もはや切っても切れない関係にある、ということだ。
生物進化の方向、上記のプログラミングの書き変えの種類、ということでは、無限大の可能性があったし、事実、多くの種が、滅びの道に入り、今、この地球上には、存在しない。そこには、だれの、「選択」意志、も入っていないが(もちろん、一部の人間が遊び半分で絶滅させた種は数知れない)、少なくとも言えることは、現在、残っているものは、相当に、高度なレベルで、この「地球ホメオスタシス」の想定しうる変化に、柔軟に対応できる強度を、もっていると、考えてよさそうだ。
もう一度、最初の問いに戻ろうではないか。果して、こんなものの「プログラミング」なんて、スタティックに記述できると思います?
なぜ、バイオテクノロジー、は、投資家たちの一時の、ブーム(期待値)の時代から、ほとんどのベンチャー企業がこうやって淘汰される段階に、たち至ったか。

遺伝子組み換え技術は期待されたほど農産物の増収につながらず、臓器移植はいまだ決定的に有効と言えるほどの延命治療とはなっていない。ES細胞の分化機構は未知で、増殖を制御できず、奇跡的に作出されたクローン羊ドリーは早死にしてしまった。
こうした数々の事例は、バイオテクノロジーの過渡期性を意味しているのではなく、動的な平衡系としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように、私には思えてならない。

最後にこのようなイメージをもう少し、私たち自身にひき寄せた例で考えてみる。
つまり、「思考」について、である。
我々は、考える。しかし、そのためには、「記憶」が重要である。しかし、上記で証明されたように、どうも、その記憶というやらは、コンピュータのメモリやハードディスクのように、「物質」ではないようだ(なんてったって、毎日のように、違うものに変わっている、ということですから)。
だとしたら、「記憶」とは、なんなのだ。

私たちが鮮烈に覚えている若い頃の記憶とは、何度も想起したことがある記憶のことである。あなたが何度もそれを思い出し、その都度いとおしみ、同時に改変してきた何かのことなのである。
ではいったい記憶とは何だろうか。細胞の中身は、絶え間のない流転にさらされているわけだから、そこに記憶を物質的に保持しておくことは不可能である。それはこれまで見てきたとおりだ。ならば記憶はどこにあるのか。あ
それはおそらく細胞の外側にある。正確にいえば、細胞と細胞とのあいだに。

つまり、有名な、電気信号、化学反応、電気信号、このパターンを何度も繰り返す、神経回路のことだ。
なんか、柄谷さんみたいになってきましたね。「間」とか言い始めちゃって。

あるとき、回路のどこかに刺激が入力される。それは懐しい匂いかもしれない。あるいはメロディもしれない。小さなガラスの破片のようなものかもしれない。刺激はその回路を活動電位の波となって伝わり、順番に明かりをともす。
ずっと忘れていたにもかかわらず、回路の形はかつて作られた時と同じ星座となってほの暗い脳内に青白い光をほんの一瞬、発する。
たて、個々の神経細胞の中身のタンパク質分子が、合成と分解を受けてすっかり入れ替わっても、細胞と細胞とが形作る回路の形は保持される。
いや、その形すら長い年月のうちに少しずつ変容するかもしれない。しかし、おおよその星座のかたちはそのまま残る。

記憶は、各サーキットに、恐らく、「プログラム」のような形で存在、するんじゃないか、ということでしょう。さて。どうしましょうかね。こんなもののプログラムをスタティックに書けます?

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

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