星亮一『偽りの明治維新』

やはり、会津問題に、ふれないわけにはいかないだろう。
北陸、東北地方の人は、たいてい、一度は、修学旅行などで、会津に行っているだろう。例の、白虎隊、である。
こう考えると、坂本龍馬を評価するのも、微妙なのかな。もちろん、その頃にはもう、あの世の人ですけどね。
江戸城無血開城については、以前書いた。そもそも、西郷が、江戸城内の、虐殺を思いとどまったのは、当時のイギリス人たちの意向だった、と考えるべきなのだろう(篤姫の一言で西郷が涙したなんてのは、漫画の見すぎ、ってことでしょう)。
イギリスは、首都江戸が、ぼろぼろになり、自分たちの商売に不都合が生じるのを、嫌がった。薩長といっても、イギリスの武器、イギリスの金でやってたって話ですからね。その関係はずっと続き、日清、日露は、ユダヤ・マネーだっていう話もある。
しかし、西郷が、新政権を構想したとき、前政権の残滓が残る限り、新政権の基盤はもろい、と考え、徹底した、前政権の残党の抹殺を目指した、ということなのかもしれない。
しかし、こうやって、外国の意向によって、首都虐殺は、回避される。
しかし、それだけですむでしょうか。
会津は、もともと、その忠臣ぶりを評価されて、幕末、京のみかどを守る任務にあった。
彼らが、最後まで、薩長を認めなかった。なぜか。

9月25日、佐川は降伏の命に接したが「我らは降伏せず」となおも戦いを続けた。「薩長は官軍にあらず官賊なり」というのが拒否の理由だった。

当然である。徳川が一方にありながら、なぜ、これを打ち壊して、新しい政権を立てなければいけないのか。
もし慶喜のちょっとしたご乱心で、大政奉還なら、むしろ、やるべきことは、徳川幕府の「国体護持」であろう。
では、これに対する、薩長の答えは何か。
「何もない」。
薩長は、最後まで、自分たちを正当化する言説をもたなかった。
それは、その後の維新政府の構成をみても、政府中枢が、薩長、特に、長州勢で、占められていたことからも、わかる。
まったく、挙国一致内閣ではなかった。
彼らは、明らかに、クーデターの首謀者という自覚があったのだろう。彼らはそのテロリストの首謀者を、論功行賞として、政権の重要ポストに重用する(安倍前政権、そのものだ)。
しかし、そもそも、彼らのクーデターを正当化するロジックなんてない。
この精神構造は、その後の日本の政治のあらゆる場面で、ひずみをもたらす。維新政府のその正当性を疑う議論は、徹底的に抹殺される。すると、歴史教育からなにから、もう理屈でなにが正しいじゃなくなる。あらゆる教育現場で、理屈を言う奴は、「殴られる」。理屈とは、忠誠を欠いていることを表すメルクマールとなる。教育は、勢い、すべて、維新政府が押し付ける、物語、をどこまで正しく記憶しているか、の暗記物となる。
掲題書籍は、以下のように指摘する。

徳川慶喜松平容保を朝敵と決めつけた討幕の密勅について、偽造のからくりを暴露した(山川浩京都守護職始末』)。
問 薩長に賜った綸旨は何人の起草か。
答 玉松操の起草だ。
問 筆者は何人か。
答 薩摩は余が書いた。長州は中御門が書いた。このことは自分ら三人と岩倉具視のほか誰も知らない。
この密勅はまったくの捏造だったのである。

NHKの篤姫でも、これが、どれだけ、慶喜を混乱させ、諸藩の大勢を決していったかが描かれていたが、こんな最初から、まったくのデタラメだったとしたなら、まずその正当性は、今からでも、問われなければならないのではないか。
まあ、これがなくても、会津の主張は、正しいでしょうがね。

平成19年(2007)、会津と長州について新しい動きがいくつか出た。山口県出身の安倍晋三が総理在任中に会津若松市を訪れ、会津戊辰戦争に関して「長州の先輩が会津の人々にご迷惑をかけた」と謝罪したことがあった(4月14日)。
このとき、会津若松の反応は様々だった。会津若松市長も会津若松商工会議所の幹部も、
「遊説でちょっと喋っただけですからね。安倍さんは軽い、軽すぎますよ」
と、この発言を肯定的に受け止めることはなかった。戦死者が眠る飯盛山や天寧寺をお参りし、香典すれば別だったが、遊説のつけ足しでは許せないということだった。

ほんと、どうしましょうかね。
戊辰戦争は、本当に、凄惨を極めたそうである。血に飢えた、薩長には、「生贄」が必要であった。さんざん、暴虐の限りを尽し、当時の会津藩の人たちは、東北、北海道へ、「亡命」する。
しかも、末代まで、決して許せないことは、彼ら維新政府が、死者の埋葬を許さなかったことである。死体は、鳥についばまれ、死臭は何日も続いた、という。
南京大虐殺、なんて存在しない、という寝惚けたことを言っている、御仁たちは、どうも、「日本の中」にこそ、本家に劣らない、「南京大虐殺」、があったことを、お忘れのようである。
しかし、彼ら、会津の志士たちは、実に正々堂々と、最後の一人まで、闘った。まるで、明治政府の朝鮮王朝滅亡占領政策に対する、朝鮮人民の抗日志士たちのようではないか。

五郎(柴五郎)は家族の自刀を叔父清助翁から聞いたときの衝撃をこのように書いた。
「今朝のことなり。敵城下に侵入したるも御身の母をはじめ家人一同退去を肯かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、いさぎよく自刀されたり、余はこわれて介錯いたし、家に火を放ちて参った。母君臨終にさいして御身の保護教育を委属されたり、御身の悲痛もさることながら、これは武家のつねなり、驚き悲しむにたらず、あきらめよ。いさぎよくあきらむべし、幼き妹までよく自刀して果てたるぞ、今日ただいまより忍びて余の支持に従うべし、これを聞きて茫然自失、答うるに声いでず、泣くに涙流れず、眩暈して打ちふしたり」
武士たるものは、たとえ女、子どもであっても自刀する場合もあるという叔父の言葉は強烈だった。

彼はその時、あまりにも幼かったので、自らの意志がまだなかった。一緒にハラキリに加わることがかなわなかったわけですね(違うか。妹が自刀しているということだから、その場にいなかったことが原因なのかな)。
あいかわらず、「自虐=非国民」レッテル好きの御仁は、そうやれば歴史から、目をそらすことができるとでも思っているのか。自らを、彼の立場になり、思考できない者に、歴史を語る資格などない、ということなのであろう。
その後の歴史においても、さまざまに、奥羽越列藩同盟、の地域は、差別的待遇を受ける結果となる。
奥羽越列藩同盟、という枠組みで考えれば、このエリアを、上杉謙信、長尾兼続、の流れをくむ、義、の地域と言ったっていいはずだ(この関係で、新潟は、廃藩置県のとき、長岡が県庁所在地にならなかったなんて話も聞きますね)。
私の幕末研究も、戦後の新憲法の正当性の問題から始まって、ここまで来た。こういう視点で考えれば、長州主導の明治政府の戦後の否定は、奥羽越列藩同盟、の名誉回復、戦後憲法こそ、その理念の実現、と考えることもできる。一体、どこのどいつがその正当性の否定などできようか(今だに、福島県、から、一人の総理大臣も輩出されていないことには、重大に考えてもいいのではないか)。

偽りの明治維新―会津戊辰戦争の真実 (だいわ文庫)

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