坪井ひろみ『グラミン銀行を知っていますか』

私は、変な話だが、一点、日本の法律は、おかしいんじゃないか、と思っている。
それは、夫婦における妻の権利(財産など)について、です。
例えば、離婚した女性が、母子家庭、となったとき、なぜ、日本において、これほど、女性は「苦労」しているのでしょうか。
一人で育てていて、立派だと思いますけど、そういう問題でしょうか。
よく女性は利己的だとか、好き勝手言いますけど(私もそういや、そんなこと書きましたね)、そうなるのは、「当然」なんじゃないでしょうか。
本当に女性は、このままでいいんでしょうか。
いろいろな問題が、おそらく、そこにはあるんでしょうね。
まず、女性のほとんどが、あの、「パート」とかいう訳の分かんない働き方をしています。なんです、これ。こんなことで、21世紀も行くんでしょうか。
どうしても、ずっと、「家父長制」をひきずっているんじゃないか。一見、無くなってきてるように思われるけど、あいかわらず、細かい細部を見てみると、家父長制の影響としか思えない制度が多くあることが気になる。
根本的に、どういう社会で「あるべき」だと考えますか?
私はむしろ、離婚して、母親側が、子供をひきとることになっても、決して「女性が不幸にならない」社会だと思うんですけどね。どうも違う考えの人が多すぎるようです。
例えば、離婚して、お互い違う道を歩む、としましょう。そうなったら、なんですか。もう、相手は「ただの」他人ですか。自分の子供を相手が引き取ったらもう、「ただの」他人の子ですか。そもそも、離婚は不幸でしょうか。お互いが、別々の道を探し始めることは、大切なことなんじゃないですかね。
たとえ顔を合わすことはなくなっても、相手が金銭的に苦労してるなら、いくらだって、面倒みるべきでしょう。それが、人間の関係なんじゃないですかね。
私が気に入らないことは、そういうことだということです。こういう状態に置かれている女性が「美しくなれない」、自信をもって「輝けない」としたら、当然なんじゃないでしょうか。
当たり前ですけど、なんらかのシステムがいるんじゃないですか。当然ですけど、「パート」システムなんていう訳の分からない制度を暗黙に押し付け続けてきた国が、まず、そのことの責任から考えても、彼女たちへの手厚い保護がなければ、あまりにもバランスのとれない不幸な国家ではないでしょうか(もちろん、多くの場合は、男性の側の「没落」がトリガーなんだろうだけに、大変なんだと思いますが)。
しかし、こうやって、女性がかわいそうなくらい「醜く」なり、子供が少なくなり、はっきりと、滅びの道、を歩き始めたこの日本の姿は、実にその実相を表しているってことじゃないでしょうか。男なんて、どーせ醜いのだ。勝手に、滅びてしまえ。でも、女性は残ってもらわないと困る。嫌がられても「美しく」「生き生き」していてもらおーじゃないか。
さて、掲題の本ですが、2006年に、ノーベル平和賞となった、ムハマド・ユヌスが提唱した、グラミン銀行の本である。
こんな想像をしてみよう。バングラディシュという、日本からまったく想像できないような、貧困を生きている人たちに、果して、日本の銀行はお金を「貸す」であろうか。
絶対に、ありえない。なぜなら、「儲からない」から。
しかし、逆にこんなふうに言ってみようではないか。
こういう人たちに、お金を、低利で貸そうとしない、銀行って、いるの?

ユヌス博士は自伝のなかで、グラミン銀行の誕生を、以下のように回想している。

1974年、バングラディシュを襲った大飢饉は、私の人生を変えた。私は、飢饉を目の当たりにして、経済理論は飢えて死にゆく人びとを救うことができないという虚しい感情にとらわれた。そこで、貧しい人々の暮らしを反映するような生きた経済学を探究しようと、大学の隣にあるジョブラ村の貧しい家々を訪れた。ある日、竹の椅子を編んでいたソフィアさんに出会った。彼女は、仲買人から5タカ(16セント)を借り、それで竹を買って椅子をつくり、でき上がった椅子を仲買人に売っていた。こうして彼女は、一日に50パイサ(1・6セント:2・5円)稼いでいた。
私は、一日中働いた稼ぎが50パイサであることに衝撃を受けた。なぜ彼女は貧しいのか。それは、彼女が現金を仲買人から借りていたため、製品を買い叩かれていたのだ。彼女には、わずか5タカがないのだ。もし、彼女が信用(credit)されて少額を借りることができれば、製品を買い叩かれずに、もっと高い値で売れるだろう。

ここから、ユヌスさんは、マイクロ・クレジットという考えを発展させる。貧しいけど必死に経済活動にはげもうとしている「生き生きした」人に、「ほんの少し」のお金を、低利、無担保、で貸すのだ。
なぜ、銀行なこんなすばらしい行為をやることに、二の足を踏むのか。もちろん、どんなにうまくいっても、たいした儲けにならない、というのが大きいのだろう。あまりに少額なので、事務処理の方ばっかりかかって、うまみがない、ということなのだろう。
しかし、そもそも、発想が違うわけだ。
貧しいがゆえに、困っている人が、目の前にいるのだ。その人が、いつまでも、貧困の底辺をさまようことに、なんの痛痒も感じないなら、そんな人間、なにをやっても同じだろう。
さて、こういう活動によって、もちろん「損」をする人がいる。もちろん、今まで、さんざん暴利をむさぼっていた「仲買人」。つまり、日本の銀行だ。彼らは、儲からなくなるに従い、そもそもの彼ら自身の存在価値を問われることになっていくだろう。
この、グラミン銀行は、考え方が違うわけですね。そして、非常に、教育的なんですね。週に一回は、集会があって、それへの参加が、義務としてあるんだそうです。
もちろん、いろいろ苦労はあるようだ。15%くらいは、やはり、(お金が返せないなどで)ここから去っていく人もいるそうだ。
しかし、著者も指摘するように、こういう制度は、日本の、頼母子講、などの、昭和20〜40年代の、女性の「生活改善運動」を思わせることを指摘する(大きな違いは、原資や担保が不要なかわりに、グループでの連帯責任、となっている部分だろう)。
私は、(前から書いているように)結婚に懐疑的だが、それは、結婚は否定されるべき、と言いたいわけじゃない。むしろ、逆である。愛し合っているなら、一緒にいることこそ、幸せじゃないですか。しかし、別々に生きたからって、なぜそれが、不幸なのでしょう。それはむしろ「必要」なんじゃないですか。それが、近代的な自立した個の姿なんじゃないでしょうか。どうして、そういう生き方を応援できないなどということがありましょうか。
女性に必要なものはなにか。彼女たちの「貯金」である。結婚していようと、そうでなかろうと、自分だけの、預金通帳を、まず持たなければ、だめだ。あなたが、生きていくには、お金がいる。結婚していようと、出産や育児で働けない時期だろうと、夫から、ちゃんと、家や子供のためのお金以外に、自分のための「給料」をもらってください。そして、本気で、朝の通勤列車の中のほとんどが、スーツ姿のサラリーマン、つまり、男ばかりなのかを、疑うところから始めましょう。

グラミン銀行を知っていますか―貧困女性の開発と自立支援

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