城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか』

最近話題の本ですね。videonews.com でも紹介されていた。
著者は、日本の、仕事の特徴を、年功序列、と言う。
例えば、著者は、以下のようなことを注意する。
年功序列とは何か。つまり、年功序列とは、若者差別の別名なのだ。

さて、2006年3月、政府は行政改革の一環として、目玉であった公務員人件費削減につき、具体的数値を含む方針を打ち出した。
「2010年までの4年間で、公務員5パーセント削減」
この5パーセントという数字、最初は人件費総額かと思っていたが、実は人数のことだったらしい。まあここまではいい。問題は以下の部分だ。
「今後4年間、新規採用を2割減らし、自然減で対応する」
つまり、またこの国から数千人の若者の職が消えてなくなったことになる。

しかし、どうだろう。当然なのではないだろうか。日本の若者は、団結、しない。階級を形成しようとしない。なぜか。そう調教されてるから、ですね。
よく、「健全な」競争というイデオロギーを口走る連中がいる。しかし、その競争とやらは、極めて、疑問だ。学校は、そもそも、競争的場所でないはずなのに、あらゆることで競わせられる。通信簿などと言って、人を数値化する。まったく、ばかげている。私たちは、この子供の頃の、隠微な差別化、分断化によって、本来的に人は、団結できない存在だと、調教されるのだ。
子供たちは、たえず、勉強を競わせられ、相手に勝つことを、意味のあることのように思わせられる。しかし、お互い教え合って、みんな、成績が伸びて、そのどこが問題だと言うのか。
もちろん、人それぞれ、差はある。しかし、「ある部分」においては、団結しなければならないのだ。
つまりこれは、「全体性」の問題なのだ(ジジェク、でしたっけ)。単純な、二者択一にだまされるな。一つを選ぶことが、一つを捨てることだとするなら、それは偽物だ。知的怠慢にすぎない。そんなものはありえないのだ。あらゆる問題は、「全て」一挙に解決されなければならないのだ。
子供は、団結し、この社会に満ちあふれている、大人たちの既得権益を破壊し、奪い取らなければならない。この世の中に満ち溢れている、子供の権利、権限を収奪しているシステムを粉砕し、子供の抑圧に組する企業を、告発し糾弾し、業績を落とさせ、猛省させる。子供にとって、自由な社会を勝ち取るのだ。
さて、その年功序列だが、このシステムが選択されているということは、そこに「構造」が生まれている、ということである。つまり、一つの日本の「種、民族、としての特徴」の、(ヘーゲル的な意味での)構造化。

既卒という言葉がある。あまり一般的ではないので、聞いたことないよという人のほうが多いかもしれない。
新卒の対になる言葉で、要するに、「すでに卒業してしまっている人間」を意味する。
そんなことを言ったらすべての社会人が含まれてしまうが、これが企業内(特に人事部)で使われる場合、「正社員としての内定がないまま、学校を卒業してしまった若者」を差す。

はっきり言ってしまえば、ほとんどの企業で「既卒者は門前払いされる」ことになる。
それは、本人の学歴がどんなに素晴しくても変わらない。

年功序列というシステムとは、たんに、そういうシステムが、独立にあるのではない。そのシステムが存在するということは、それを存在させうるための、補完的な因習が共有されることを意味している。
たとえば、日本の伝統的な仕組みとして、著者は、「奉行構い」、というものを紹介する。

もともとは豊臣秀吉が作った制度で、その後、江戸時代にまで引き継がれた。一言でいうと、大名が家臣を囲い込むためのシステムだ。
たとえば、ある大名が、自分の許可なく勝手に家臣を辞めた人間を「奉行構い」扱いと宣言したとする。すると、どんなに有能であっても、他家はけっして彼を採用できない仕組みだ。要するに、人を組織に縛りつける手段と考えていい。
「七度主君を変えねば真の士(さむらい)にあらず」と言われたように、それまでは武士と領主の関係はどちらかというと対等の契約関係に近く、主君がその義務を果たしていないと思えば、家臣は勝手に他家へ転職するのがふつうだった。
だが、この頃から契約という概念に代わり、「二君にまみえず」というような、自己犠牲型の概念が芽生えていくことになる。
「さすが封建時代、やることがえげつない」と笑う資格は、現代日本人にはない。というのも、わりと最近まで、似たような風習は一部の業界に存在したからだ(個別の企業間ではいまでも存在する)。

大事なことは、彼ら内輪の、共感ゲームの「成功度」なのだ。同じ感覚をもつこと。同じツボで笑い、同じ下ネタや、風俗で、共犯意識を育む。
カイシャ人間間の共通感覚は、全て、「先輩-後輩関係」に収斂する。既卒者とは、この共感ゲーム、の「外部」の世界の存在となる。
少し前に紹介した、犯罪者の村八分的なものと、まったく同じ構造ですね。
しかし、どうだろう。こんな、内輪うけにしか興味のないような、採用をひたすらやってきた、著者のような、大企業「富士通」のような会社が、あと、何年生き残りますかね。著者は正直なのだ。この本には、彼が、いかに、大企業「富士通」の人事部で、調教されてきたか、どういうふうに考えることが「正しい」と、すりこまれてきたかを正直に書いてある。
これも同じである。たんなる、傾向性。「全体性」として見ると、たんなる、金太郎飴集団。
前に、ある大卒で小さな会社に入ったが、3年くらいで辞めた人が語っていた理由に、自分より何年も後に入った、大学院生の初任給の方が、自分の給料より高かったので、と言っていたのを思い出した。
しかし、どうだろう。辞めたからって、給料が上がるわけじゃない。彼が本当に不満だったのは、そういうことじゃないんじゃないだろう。その会社は、彼に、その高給を支払う人並みの、教育を彼にすればよかったのだ。彼は、貪欲にこの会社で学べたことを、恩に思ったのではないか。
結局、この本の問題点は、あまりに、大企業をモデルケースにしていることだ。もちろん、この業界、大企業に、右へならえであるが、だからといって、大企業さえ論じていれば、日本が分かるみたいなのは、傲慢であろう。日本のほとんどは、中小零細企業、なのだから。
もっと言えば、年功序列、は、本当に「日本の伝統」なのだろうか。
よく知られているように、年功序列がまともに機能してきたのは、ずっと、大企業と公務員だけだ。
著者は、なんのことはない。東大を出て、富士通の人事の仕事をやって、やめて、コンサルをやってるということでしょう。
コンサルほど、口先の仕事もないだろう。

もっと言えば、彼らの有給休暇は純粋なバケーションで、体調不良は別枠で処理するのが一般的だ。これが日本だと、有給取得理由のナンバーワンは「風邪」だろう。

もちろん、そうなんだろうけど、そもそも、大企業とか、株式上場を目指す会社ほど、こういう、有給休暇が、どうのこうのと言いたがるようになる。しかし、本当に小さな、上場なんて、夢の夢の会社では、こんな制度そのものがない。

これが技術系のエンジニアであれば、事態はさらに深刻だ。彼が入社以来取り組んできた専門の技術が、その後も長く業界標準であり続けるなら、彼が順調にポストに就ける可能性はその他の事業部門などと同程度にはある。
だが、もし技術革新により、そのノウハウやスキルの蓄積がまったく役立たなくなってしまった場合、彼が若い頃の労働の報酬として受け取るのは、おそらくポストではなく、配置転換や早期退職などのリストラだ。
彼が受け取れるはずだったポストや昇給といった報酬は、そのとき、その新技術のニーズを満たせる人間(おそらく社外から中途採用された人間だ)が受け取ることになる。

これが、著者の正体である。彼は、そもそも、人間の価値を信じていない。そんなものは、たんに「状況」によって決定されるだけのものであり、人事、つまり、選ぶ側も、その時の状況が、どこかのだれかを選ぶだけ。
よく分かっただろう。この著者の人事とは、この著者が、その人の「全体性」に「ほれて」、人間として、有徳な存在と思うから、どうしても、自分たちの力になってほしい、と、三顧の礼をもって迎えるわけではないのだ。
この著者は、早い話、今、大企業がもっている、膨大なお金をどう回すかに、頭がいっぱいで、人間の人格など、はなから、頭にない。なぜ、この人間が、自分のために働いてくれるのか、自分のために、汗水たらして、努力してくれるのか、そんなことをまともに考えたこともないのだ。
たんに、便利そうだから、使ってやってる(金も払ってるし)、ただ、その需要さえみたせば、荻生徂徠のように、深い人間関係なんて面倒なだけだし、さっさと、後くされないうちに、別のに変えたいのだろう。

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)

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