おすそ分け

日本人の、アイデンティティってなんだろう、みたいなことがよく話題になる。
特に、今は、グローバル化の時代。普通に、世界中で、「元」日本人、じゃないけど、日本で生まれて、子供時代を日本で送ったけど、仕事の関係で、世界中で生活している人、あるいは、その、日本人同士の子供、また、日本人と、ハーフとの子供、また、日本人と、外国人との子供、その二世、三世、...。こんな感じで、日本人のアイデンティティを少なからず、持っていると思っている人が、世界中にいる。
しかし、彼らはもう、日本にはいない。日本人同士の、共感ゲーム、の「外」で、共通感覚、もない世界で生きている。
そうしたとき、あらためて、自分の「日本人性」とはなんなのだろう、と思わずにはいられない。
「一体、何が違うの?」
最近では、忠犬ハチ公、こそ、「日本人」だ、みたいなことを言う人もいるようだ(そんなハリウッド映画が、できたというくらいだから)。
しかし、これは、ミスリーディングであろう。と言いますか、ハチ公の暗喩とは、武士の生き方にすぎません。つまり、これは、「公務員」の心がまえ、のようなものです。彼らに日本の「精神」を象徴させることは、言ってみれば、日本が昔から「社会主義」の国だったと言うようなものでしょう。
日本の圧倒的マジョリティは、百姓、だったでしょう。刀ふり回して、合戦がどうこう言っていたり、たんかをきっていたのは、ほんの数えるくらいしかいないんです。
農民、ですね。もちろん、町民、といいますか、たんす職人のような人から、漁民、卸問屋、などの商人、と多くいる。
では、彼らの生活とは、どういうものであったのだろうか。もちろん、網野さんのように、古代から、中世を中心に見ることも示唆的だが、やはり、社会が安定した、江戸時代以降を考えるべきなのだろう。
そこには、おそらく、前に指摘した、檀家制度などもありながら、あまり、遠出などをすることもなく、小規模に村コミュニティを保持して、生きている、姿が想像できるかもしれない(御百度詣り、と言って、江戸末期は、多くの人が、旅行をしたようですけどね)。そこには、赤川さんが言うような、性的な野蛮な慣行も、ある程度は、あったであろう。
昔の農業を考えれば、秋の実りの、刈り入れの時期、村人総出で、やらないと終らないくらいでしょう。おそらく、そういうとき、祭り、という形で、ばか騒ぎのようなものがあったんじゃないかな。
こうやって見ると、韓流ドラマにでてくる、朝鮮王朝時代の、百姓と、そんなに変わらないんじゃないかな(もともと、土着の習俗が、朝鮮と、日本は、あまりに似てるんですよね)。
こういう、非常に小規模なコミュニティが、さまざまに点在している。そして、その、それぞれのコミュニティの「中」に世界がある。あまり、プライバシーの垣根もよくわからないような、濃密な人間関係。
この傾向は、明治以降は、ある部分、さらに先鋭化する。地主制度が、ものすごい規模で「肥大化」する。地方に行くと、見渡す限り、延々と、地平線の向こうまで広がる、これらすべての田圃が、ある地主「一人」の所有物、だったなんていう話が、ごまんとある。小作人は、畑を借りて、農業をやるのだが、こんなの「生かさず殺さず」。借金なんて、一生かかっても、返しきれ「させ」ないために、あるものでしょう(そのための、利子、ですよね)。
戦後の農地改革が、どれだけ、革命的なことであったのかを、多くの人が忘れているんですね。
よく考えてみてください。そこには、本当の「自由」資本主義があった。労働基準法があったわけでもない。借金の利子の上限があったわけでもない。
本当の自由主義が実現すると、なにが起きるか。金持ちブルジョワによる、国家中枢の、支配、ですね。金持ちは「権力者」である。彼らが社会を支配しようと思うなら、まず、先にやることは、国家中枢の支配でしょう。いかに、彼ら金持ちの権力が未来永劫続くような国家の仕組みにするかが、なによりも優先して目指される(国家は、民主主義と、なじみにくいんですね)。こんなことは、マルクス主義全盛の頃は、だれでも、口走ってたはずなのだが。
さて、話を戻して、江戸時代から続く、日本の百姓の特徴としては、しいて言えば、中華に対する、夷狄として、日本は、ずっと、辺境の野蛮国、だった、ということじゃないですかね。それはいい面もあって、比較的、あらゆることが、ルーズ。儒教と言っても、そんなに、がんばらないし、仏教も、土着化して、普通に、土着の信仰と習合するし。
田舎に行くと、「おすそ分け」という慣行がある。これは、家でなにかを(たとえば、たくあん、など)作ったとき、ほんの少しだけ作るのは、効率が悪いので、多少、自分たちが食べる分より多く作って、その余分な分を、近所の人に、配るんですね。おせいぼ、のような意味もあるのですかね。そうすると、他のところも、そういうことをやるので、お返しになったりする。分業のようになるのだから、効率的、なんて言いたくなりますが(一種の、贈与的関係、ですよね)。
しかし、これは、相当、まわりの人の嗜好がわかってないとできませんよね。それだけ、プライバシーのボーダーのあやしい生活があるということでもある。