福岡伸一「体細胞クローン牛の安全性問題」

この前に、生物学者としての、昭和天皇、について書かせてもらった。
それにしても、多くの人たちが、この事実をどう考えていたのだろう、と思ってみると、不思議な感覚になる(最近の、福田和也昭和天皇本、にしても、このことについて、どれだけ書いてありますかね)。
しかし、よくよく、考えてみると、なんだか、当然のことのようにも思えてくるわけですね。
「お前は神だ」と、小さい頃から、さんざん、言われてきて、あと、やることって、なんだろうと。神「でないもの」、つまり、人間などの生物について、調べるくらいしか残ってないよなー。
しかしね。
なんというかね。
もっと、素朴な疑問ってあるんですよね。
人間とほかの生物って、そんなに違います?
掲題の著者の前に紹介した本にこんな文章が載っています。

動物たちは思考や意識を持たない機械ではない。そんなことはずっと昔からわかっていたはなのに、今、私たちはそのことを深く考えようとはしていない。ワトソンは言う。「問題は、動物には意識というものがないと、私たちが何時の頃からか思い込んでいることだ」と。

自然界は歌声で満ちている。象たちは低周波で語り合っている。ヒトはただそれが聴こえないだけなのだ。
この事実は、1984年、動物学者のケイティ・ペインが超低周波録音装置を動物園に持ち込むまで誰も気がつかなかった。驚くべきことに象舎の中は「音」であふれていた。人間に知覚できるとされるより三オクターブも低い音が。二頭の象は一メートル近い厚みのコンクリート壁を隔てて、じっと向かい合って「話して」いた。

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

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だから、ここにも皮肉がありますよね。日本政府としては、戦争に勝つには、どうしても、国民の近代科学への啓蒙が、なによりも必要とされた。こういう基本も理解していなければ、大砲の玉が、どうやれば、敵に当たるかもままならない、ってことでしょう。そこから考えれば、天皇がこの科学に理解があるってことほど、かっこうの、宣伝効果はないでしょう。しかし、その結果が、人間そのものの「生物性」、逆に言えば、人間以外のほかの生物こそ、そんなに、人間と違う、「生活」をしてるわけじゃない、ってことですね。そんな認識を、「神」である(とされている)、天皇が、嫌というほど、研究して、証明する、というわけですからね。
さて、掲題の、時事エッセイですが、近ごろ、農林水産省、が、発表した、体細胞クローン牛の「安全宣言」について、ちょっと、皮肉な話が書いてある。
安全か、と言えば、どうして、安全なんて言えるの?って、話ですね。しかし、著者に言わせれば、こんなもの、そもそも、成功しない、ってことらしい。

安福号が天下の名牛たりえたのは、但馬牛としての遺伝的背景が基礎になったことは間違いないが、岐阜の肥育農家が特別な配慮のもとに丹精込めて育て上げた結果としてこそある。現在でも牛の肉質は肥料の選択や肥育環境が決め手となる。つまり遺伝的に均質な100頭の安福号クローンが仮に誕生したとして、一体このうち何頭が安福号と同じくらい立派ん名牛に成長するだろうか。先端的なクローン技術が今後証明しうるのは、逆説的なことながら、私たちがすでに古くから知っている実にシンプルなことではないだろうか。それは「氏より育ち」という事実である。

人間はどうも、家柄とか、家系とか、そういうものへの、神秘主義から、なかなか、逃がれられないようだ。遺伝子には、なにか、神秘のパワーがあって、きっと、やんごとなきお方が、そうであるのには、それなりの理由がないわけがないじゃないか。だって、あんなに、えらそうに、ふんぞりかえってるんですよ(あんまりに、えらくなりすぎて、エビ反り、一周しそうだ)。
きっと、そこには、なにかある。
もちろん、人間がそうだというなら、どうして「牛」がそうでないと言えよう。牛にだって、やんごとなき、「家系」があるのだ。だって、あんなに高い値段で売れる品種があるのだ。あんなに高い値段を払ってでも食べてくれる品種がいる。
きっと、この品種には、なにかある。
うーん。
いい餌やって、いい教育して、いい自然環境で、放っておけば、同じ種なんだから、そんなに違いもないと思いますけどね。逆に、いろいろ、苦労したり、ハイブリッドが進んでいる方こそ、いろいろな状況に適応可能な傾向性が、(統計的に)高いと思いますけどね(昭和天皇と一緒に、生物学を学ぼう。もう、平成の世で、故人ですけど)。