樋口浩造『江戸の批判的系譜学』

この本は、自分が考えてきた、中の、かなり、中心的なものの、主題に迫っているんじゃないか。
この本では、主に、江戸時代を通して続いた、山崎闇斎学派、の主題を、とりあげる。
しかし、です。
そういうふうに言うとき、多くの知識ある人たちの整理においては、このことの意味することとは、戦前の、皇国思想の中核を占める思想、例えば、平泉澄、の、「闇斎先生とその精神」の、どこか、イデオロギッシュな、プロパガンダ論文の、文脈の中で考えることと、とらえがちである(特に、学校で、まじめに勉強した人であればあるほど、そうではないか)。
闇斎学派、の言説ほど、日本の戦後の最後の「聖域」とされているものはないんじゃないか。
また、闇斎学派、が江戸初期に始まり、幕末まで、続いたことを、どう考えればいいのだろうか。
そこには、まさに、本の題名にある、ニーチェの言う、「系譜学」、があるように思えてくるわけです。
つまり、私たちは、闇斎学派、の言わんとしていることに、耳を傾けてい「ない」のです。私たちが聞いているのは、その代弁者を自称する、平泉澄、に続く現代の保守派の、整理した、物語なんですね。

尚斎の学統を次ぐ幕末の楠本碩水に教えを受けた内田周平は、明確に絅斎への高い評価の立場に立つ。そうして近代における崎門派の道統は、近藤敬吾へとつながり、闇斎学派と言えば、体認の学としての絅斎派の学統という「常識」ができあがったのではなかろうか。例えば幕末の志士は皆ふところに『精献遺言』を抱いていたという、まことしやかに語られる「事実」は、管見では内田周平の根拠を示さない発言以外に典拠が見出せない。

崎門派においては「道統」を確立継承したのが「朱子」であり、「朱子」以後の「道統」を継ぐ第一人者が「闇斎」である。

例えば、崎門派、一つの特徴である、神道、と、儒学、の融合を、私たちは、どのように考えたらいいのだろうか。
私は、そこの部分こそ、あまり、自信がなかったのだが、今回、この本を読んで、少し考えるヒントを見つけたと思った部分である。

また、藤樹は「大乙神経」を唱える。漢代以降「易神」(「大乙神」)の霊像を祭ることは、道教のなすこととされ忘れ去られてきた。それを再度「明儒」の説を取ることで、儒教の側に取り戻そうと言うのだ。

儒教の中には、民草に根付き続けてきた、土俗の信仰を、最初から、包含し、思考してきた、伝統がある。儒教の側から考えれば、神道とは、言ってみれば、儒教の一部にしか見えないのであろう。
つまり、儒教の立場にたつなら、民間の、例えば、お盆などの習俗、つまり、先祖信仰、は、儒教の「正統」の思考となるのであるし、そう考えたとき、神道という、もう一つの、土俗の民間信仰も、別に、儒教的な、本質の歴史から派生してきた、土俗的な風俗の一種ではない、となり、区別すること自体が、不自然となるのだろう。
例えば、こんなふうにも考えられる。この、神道の伝統とは、日本が日本になる以前の、まだ、文字が無かった、頃、卑弥呼以前の、なんらかがあると考えるよりも、その多くを、その中国からの渡来人によって、もたらされた、民間習俗的なものが、この土地に適応してきたものである、と。いや、たとえ、卑弥呼以前の、なんらかをディープに反映していたとしても、それさえもが、はるか、太古のアジア大陸からの、移民によって、形成されたものだったと考えたとき、別に、儒教の側が、神道を別の風俗と区別する理由はないわけだ。
そうですね。ここには、どこか、明治以降に、さまざまに指摘されてきた、言文一致、の錯誤があるんですね。
以前から、何度も言っているように、印刷文化の、日本における、本格的な普及は、江戸初期から、始まっているし、山崎闇斎の、さまざまな論文も、当時から、印刷されていました。おもしろいことは、こういう印刷文化と、ナショナリズムの興隆の、並行性なんですね。
例えば、私が、崎門派の中で、最も評価する、佐藤直方は、次のように言っています。

唐音ヲ習ハ役ニ立ヌコト也。土地ガチガフタユヘニ、ドウデモウツラヌ者也。......タダ文字ノ吟味シタガヨシ。何ノ仁義礼智ノ為ニ唐音知ラヌトテ、サハリハナイコト也。声ガナマルトテ、聖賢ニナラレマジキ様モナシ。京ノ者ハナマリハナシ。江戸ノ者ハナマレドモ、京ノ者ガナマラヌトテ、何ノ役ニ立タヌ也。然バ土地ノ風ニヨリ、ナマリモスミモセン。唐人ニナラ子バ唐音ハナラヌコト也。

直方は、しばしば突飛な例を引きながら説明する癖があるように思われるが、ここでも中国と日本との言語における音声言語の相違を、京都弁と江戸弁の相違程度のものと見なすような説明をしている。音声言語の相違を指摘しながら、それは「仁義礼智ノ為」ニハ何ら問題ではない、「文字ノ吟味」こそが大切だというのだ。

著者は、この、直方の発言を、突飛と言うが、そうだろうか。私には、最も本質的なことが言われているようにしか思えません。印刷とは、いわば、言説の「現前化」なんですね。メディアの誕生と言ってもいいわけです。あらゆる言語文化は、印刷が発明されるまでは、「対面情報だったわけですね。それが、印刷によって、機械的に、言語活動の産物が、「みんな」に流通を始める。
おもしろいのは、ちょうどこの現象と、「内面」、つまり、心、というものが、強調され始める文化が、丁度対応することなんですね。
そして、さらにこれは、ナショナリズム、とも対応してくる。

「江戸」の批判的系譜学―ナショナリズムの思想史

「江戸」の批判的系譜学―ナショナリズムの思想史