柄谷行人『柄谷行人 政治を語る』

今回のインタビューは、今までの、まとめのような内容ですね。それほど、深く、ふみこんでいるようではないけど、全体として、柄谷さんについて、把握するには、いいんじゃないか。
いろいろ、書いてありますし、それぞれ、興味深いんですが、やはり、ひとつだけ注目すると、どの話題ですかね。
今まで、あまり語られなかった、NAMの、総括と、今、その延長として、考えていること、じゃないんでしょうかね。
NAMについては、むしろ、NAMと関わらない、外部の人たちの方が、醜いくらいに、柄谷さんを、(まるで、永遠平和を唱えるカントを嘲笑したヘーゲルのように)愚弄、嘲笑してましたよね(しかも、みんな、同じ理由で)。
その中で、最もはしゃいでいたのが、竹田青嗣、だったでしょうか。
この人は、現象学とか言って、フッサールがどうのこうのと言ってたけど、結局、この人の主張しようとしていたことって、なんだったのでしょうかね。
なんらかの、積極的なことが言えるようにならないなら、それは、議論のための議論にすぎない。なんらかの、みんなの「合意」が成立するような、積極的な論理でなければ「ならない」。
そこから、民主主義的な、合意プロセスを、極端に、重要視する。
つまり、多数決で多数になった考え、それは、この社会を成り立たせるためには、もう「真理」と同じくらいの、価値を与えなければ「ならない」。そうしないと、なんにも積極的な合意が決まっていかない。
合意形成において、あえて、極端に楽観的になろうとした、ということなんでしょうね。いつまでも、この世界のそれぞれ主張するグループが、分裂した主張をしていることが許せない。その分裂が、なぜ合意に向かわないのか。それは、「間違った」手続きで議論してるからじゃないのか(つまり、「現象学」的合意プロセスを踏んでいない)。
この人は、天皇に戦争責任はない、という主題で、共著で対談本を出してましたね。大事なことは、上でも書きましたけど、その合意手続きは、「全員一致」ではないんですね。少数意見は、当然、握り潰されなければならない。そうしないと、「合意」にならないから、ですね。
そこで、この竹田さん、ポストモダンを、仮想敵、と言って戦ってましたけど、掲題の本でもありますけど、柄谷さんは、自分をポストモダンだという世間に対して、最初に、自分が「自分がポストモダンだ」という主張を批判した、と言ってますけどね。一体、誰と戦ってたんですかね。
竹田さんのような、認識がたんなる認識にとどまることに耐えられない、それが、「合意」にならなければ、「意味」がない、と考える、そういう主張は強力じゃないでしょうかね(それは、素朴に考えると、自然に思えるんですね)。特に、学校秀才、にそういう傾向が強いでしょう。
しかし、それは、単純に、それだけの話ではないんですね。そこには、また別の、「外」からの、視点がある。
つまり、中間勢力、の話です。
たとえば、柄谷さんは、宮崎学の『法と掟と』にある、個別社会、の議論、そして、この議論が、丸山眞男、の主張していたこと(これが、モンテスキューの中間勢力の議論に対応するわけですが)に、対応していることを、強調します。

たとえば、村の共同体でもいいし、宮崎がいうやくざの組織でもいいのですが、個別社会には、そのなかで共有されている規範があります。それを掟と呼ぶことにします。それは明文化されていないいし、罰則もないけれども、人はめったにそれを敗らない。掟で禁じられていることをやれば、いわば村八分にされるからです。

ところで、宮崎によると、日本の社会ではそういう区別が成り立たない。掟をもった自治的な個別社会が希薄である、という。その原因は、日本が明治以降、封建時代にあった自治的な個別社会を全面的に解体して、人をすべて全体社会に吸収して、急速な発展を遂げたことにある。それに対してヨーロッパでは、近代化は自治都市、共同組合、ギルドその他のアソシエーションが強化されるかたちで徐々に起こった。

それに対して、中国では、個別社会が非常に強い。中国では個別社会----幇(パン)や親族組織----が強く、それが国家(ネーション)の形成を妨げてきた。そのために、中国の近代化は遅れた。しかし、中国には、国境を超えた個別社会のネットワークがある。逆に、今日のグローバル資本主義経済のもとでは、それが強みになっている。

もちろん、ヨーロッパにしても、中国にしても、この、中間勢力の、国家による、握り潰し、は続いていると思います(そういう視点から、掲題の本では、フーコーを批判してますね。フーコー自身が、フランスの国家官僚、みたいなもんだったわけでしょう)。
だから、あまり、特権的に、そういった大陸を、別に論じるべきではないのだろうけど、やはりこの、島国、日本、における、あまりにも、簡単に、この中間勢力が、雲散霧消していく、今、の現実を見ていくと、なんとも、うすら寒くなってくるわけです。

たとえば、彼(丸山眞男)は、西洋において「学問の自由」という伝統をつくったのは、進歩派ではなく、古い勢力、中間勢力だといっています。つまり、国家が教育の権利を握ることに教会が抵抗したことから、学問の自由が成立した。ところが、明治日本では、国家が教育の権利をやすやすと握った。それは、徳川体制のもとで、仏教団体がたんなる行政機関になっていたからですね。

このことを、まともに主張している、知識人。この日本で、一体、どれだけいますでしょうか? 今、日本で、学問、と呼んでいるもの。たんなる、「国家学」、でしょう。なぜ、一人、として、この日本の知識人は、このことに、危機感をもたないのでしょう。
唯一、このことだけでも、丸山眞男、を、たんに愚弄することが、なにを意味するか、でしょう。

2001年に小泉が首相になる前に、日本の「新自由主義」の体制は完成していたと思います。新自由主義は1980年代にレーガン主義、サッチャー主義として存在したもので、日本ではそれが中曽根によって実行された。その目玉が国鉄の民営化です。それは同時に国鉄労働組合国労)の解体です。国労は総評の要でしたから、それは総評の解体を意味する。総評が解体すれば、社会党が消滅することになる。
つぎに、日教組の弾圧。教育の統制が進んだ。大学の民営化というのは、実際は、国営化です。それまでの大学は、国立でありながら、じつは、文部省から独立していた。つまり、中間勢力でした。民営化によって、こうした自治が剥奪された。私立大学でも同じです。国家の財政的援助の増大とともに、国家によるコントロールが強化されたわけです。
さらに、特筆すべきなのは、公明党連立政権に加えることによる創価学会のとりこみです。与党であるために、彼らは年来の課題であった、大衆福祉と反戦を放棄してしまった。こうして、中間勢力であった宗教的勢力が抑え込まれた。もう一つは、部落解放同盟の制圧です。部落解放同盟は、部落だけでなく、すべての差別される少数派の運動に支えられていた。また、それは右翼を抑制する力があった。解放同盟が無力化したのに、右翼はわがもの顔にふるまいはじめたと思います。
日本で中間勢力がほぼ消滅したのが2000年です。そこに、小泉政権が出てきた。もう敵はいない。彼は中間勢力の残党を、「守旧派」「抵抗勢力」と呼んで一掃したわけです。

このような中間勢力はどのようにしてつぶされたか。メディアのキャンペーンで一斉に非難されたのです。封建的で、不合理、非効率的だ、これでは海外との競争に勝てない、と。小泉の言葉でいえば、「守旧勢力」です。これに抵抗することは難しかった。実際、大学教授会は古くさい。国鉄はサービスがひどい。解放同盟は糾弾闘争で悪名高い。たしかに、批判されるべき面がある。これを擁護するのは、難しいのです。
しかし、中間勢力とは一般にこういうものだというべきです。たとえば、モンテスキューは、民主主義を保障する中間勢力を、貴族と教会に見出したわけですが、両方ともひどいものです。だから、フランス革命で、このような勢力がつぶされたのも当然です。こうした中間勢力を擁護するのは難しい。だから、一斉に非難されると、つぶされてしまう。その結果、専制に抵抗する集団がなくなってしまう。

どうでしょうか。ここで、大事なことは、なんなのでしょうか?
日本において、多くの、中間勢力が、戦後、ずっと、撲滅、されてきた。もちろん、国鉄にしてもそうですが、各勢力、それなりに問題も多かったでしょう。
しかし、です。
こうやって、いざ、中間勢力、が次々撲滅された、その死屍累々の廃墟の跡、には、どんな世界が展開されているのでしょうか。
最も、「悪」として、恐れられる、リバイアサン、「国家」だけが、繁栄の栄華を極める。最も、その、腐敗の悪質性が高いにも、かかわらず、たんに、「他に代えることができない」という理由だけで、存続し続け、権力を行使し続けている、という事実なんじゃないですかね。
もう、この国家を、牽制し、そのパワーを中和するような勢力は、この日本には、もう、「ない」のです。
この事態に対抗するには、なにが残っているのか。
少なくとも言えるのは、新しい、今の時代の、「中間勢力」、を、各自、がその、単独性の殻、から、一歩、踏み出して、形成していくことなのでしょう。
しかし、今までも、いろいろな、中間勢力の台頭はあったのだろうが、さまざまな、国家側の圧力によって、潰されてきたわけで(その先頭に立ってきたのが、マスコミです)、そう考えると、この、作業が、尋常じゃなく、大変であることは、予想できるでしょう。
では、それは、どんなものを目指すことになるのか(掲題の本では、まず、「デモ」、の重要性が書かれているが)。そのヴィジョンは...。
こうやって考えてくると、こういう問題意識をもって、考えてる、人たちが、ほとんどいないことが、なんなのかな、ということなんじゃないですかね。
世界中。どうなっていくんでしょうね。どんな、未来の世界が待っているのでしょう。