本郷和人『天皇はなぜ生き残ったか』

いやあ、これほど、おもしろいと、読む前は、思いませんでしたね。よく、まとまっているんじゃないでしょうか。
このブログでも、何度も、とりあげたわけだが、天皇、というものを、私たちは、どのように考えたらいいのだろう。
しかし、いずれにしろ、この名前で呼ばれる存在が、日本の歴史をずっと貫いてきたことは、間違いないわけだ。
著者は、一つの見識を示す。

さて、ここで日本の人口に目を転じてみよう。日本列島にはどれくらいの人が住んでいたのだろうか。人口史の第一人者、鬼頭宏の整理によれば、魏と交流のあった卑弥呼の時代に180万人ほど。人口はその後に次第に増えたようである、800年の時点では600〜650万ほど。平安時代と中世を通じては数値の上昇はゆるやかになり、1600年に1000万ほど。800年間は毎年5000人ずつしか伸びていないわけだが、うち続く戦乱・飢餓・疫病が増加を妨げる代表的な要因であったとされる。江戸時代になると急激な伸張を示し、1700年には2500万人に膨れあがる。

民のかまどは賑わっているか、と慈愛を示す天皇。精緻な律令に従って粛々と支配の実を挙げる朝廷。遥か昔の日本にはよく機能する統治があった。中国古代の聖天子堯舜を仰ぎ見るように過去に想いを馳せるそうした目差しは、どこまで有効なのだろうか。わたしは疑問をもたずに居られない。根拠は様々あるが、取り敢えず、右の人口の変遷だけですでに十分である。人口は次第に増加した。それに伴い権力もだんだんと発達した。微増であっても、右肩上がり。それが基本のはずなのだ。天皇の周辺には、麗しい君臣のやりとりや仁愛に満ちた支配があったかも知れない。けれどもその範囲はきわめて狭隘であって、ならしてみれば民衆が受容し得た行政サービスは、中世に比べ粗末ではなかったか。

しかし、そうも思いたくなるような、事実、があったことは確かであろう。つまり、「律令体制」、ですね。おそらく、日本の歴史において、これほどまでに、中国本土の、国家制度を、忠実に、「輸入」したことはなかったのではないか。

さて、この律令だが、なにしろ精緻であり、難解である。はるか後世にまとめられた鎌倉幕府御成敗式目51条に比べると、質量ともにけた違いである。

「公地公民」とはすべての土地とすべての民が天皇に帰属することを説くもので、私有の権限は認められていなかったという。

おもしろくないですかね。私有財産、を認めてないわけですから。これこそ、共産主義、みたいなものでしょう。この最初に戻れば、社会主義こそ、日本の出発点とも言いたくなりますけどね。
保守派も、天皇への、ご奉行までは、言いますよね。平泉澄、なんて、戦後になっても、首尾一貫して、国民主権、に反対したそうで、当時の自民党政治家にさえ、ひかれたそうですけど。まあ、そうであるなら、あとちょっと。私的財産権、まで、否定してくれればね。三島由紀夫が、新左翼に対し、一言、天皇と言ってくれれば、と言った意味が分かりますよね。
しかし、である。
こんな、輸入モノ。使えますかね。いきなり、もってきて。今までも、そこで生きてた人がいるんですけどね。

ところが701年の大宝律令発布から42年後の743年、墾田永年私財法の制定により、私有は広く容認された。

さまざまな、律令で定められていた、役職は、まったく、日本の実体に合っていないので、役に立たない。だから、こういうのは、なんかの名誉役職になって、実体的にさまざまな行政サービスを担う人たちは、本来の律令にない、例外的な、役職を、勝手にこしらえていくわけですね(令外官、と言うんだそうだ)。そして、長い歴史において、この例外職が、その役割があいまいであることを利用して、日本の実体的な支配の中心となっていくわけですね。
しかし、おかしなものです。律令体制をしきながら、もっとも重要な、科挙の制度をとらないわけですから。

曹操は『短歌行』で詠う。「青青子衿 悠悠我心 但為君故 沈吟至今」才覚溢れる君よ。私は君を恋う。「山不厭高 海不厭深 周公吐哺 天下帰心」どんなに図抜けた才であれ、私は受け止めてみせよう。周公のように君を待つ。さあ、我がもとに来たれ。

どうです。この志の高さ。だれだって、三国志を、おもしろいと思うんじゃないですかね。
科挙のない、律令政治、なんて背理そのものでしょう。政治の実体は、卑弥呼時代から、変わってないってことでしょう。
しかし、彼ら朝廷は、律令政治のある部分だけは、やたらとがんばった、というわけですね。武官に対する、文官の、遊興散財。

長いあいだ天皇と朝廷は組織的な反乱を経験しておらず、それに対応するための固有の軍事力の構築を怠っていた。平将門らの蜂起を鎮圧したのは、結局は藤原秀郷ら他の地方豪族の武力であって、中央軍ではなかった。

たかだか、親のコネで役職をもらっただけの、ボンボン連中ですから。ガキの頃から、さんざんやってきた、ミヤビと称する、遊興散財に興じられれば、ほかのことなど、どうでもいい連中なわけだ。
優秀な奴など、けむたいだけでしょう。自分たち、やんごとない身分の間で、そういう、おだて合い、はさんざんやっても、身分違いは、しょせん、アウト・オブ・眼中。自分たちを、ひき立てえないなら、不快なだけなわけだ。
なぜ、こういうものが許されたのだろう。その辺りは、イギリスなどの島国特有の、外敵を、連日恐れる必要がなかったことが、大きいのでしょう。
しかし、藤原道長、がみた、この夢物語、も終わりに近づく。

1159年、政争から乱が生じ、信西源義朝と結んだ信頼の軍兵に殺害される。その首は都の大路を引きまわされ、獄門に懸けられた。これが平治の乱であり、乱の勝利者となった平清盛がこの後の政局の主導権を握った。

1179年末、福原に引退していた清盛は突如として武門の真の相貌を顕わにする。数千の兵を率いて入京し、後白河上皇院政を停止、政務を掌握した。日本史上初めて、武士の政権が誕生したのである。

クーデターですね。まあ、平清盛、にすれば、まだ、自分の皇族の親族の子供を天皇にかつぎあげてるわけで、朝廷の否定までは行ってないが、武士支配、はどんどんそういう傾向を強めていくわけですね。

わたしは内乱の主役は、在地領主、すなわち武士であると考える。彼らは天皇と朝廷の支配に不満を募らせていた。多くの税を課せられる。しばしば京都に上り、宮中の警護に当たらねばならない。この大番役は莫大な費用すべてを在地領主側が負担するのだ。さらに、十分に警戒していないと、何より大事な本領を奪われてしまうのだ。

この後、少しずつ、朝廷の権力は低下し、武士政権に、権力、は移っていくのであるが、その間には、こんなこともあったという。

わたしは乱の終結時、混乱の中で出された一通の院宣に注目したい。後鳥羽上皇幕府軍司令官、北条泰時に宛てたものである。現代語訳してみよう。

......これから以後は「武勇を携える人々」を召し使わない。また、(貴族などが)家業を疎かにして武芸を修練することを禁じる。そういうことをしたために、この兵乱が起きたことを上皇はよくよくご承知である。先非を悔いて仰っておられるのだ。
取り次ぐことは以上の如くである。
6月15日 権中納言定高
武蔵守殿

ここで後鳥羽上皇治天の君の立場で、武士を従者としないし、朝廷の内外の人が武芸を修得するのを禁じる、と宣言する。則ち、朝廷は二度と武力を保有しません、と幕府に対して誓っているのだ。
この誓約が実行に移されたことは、史実が証明している。幕府は乱の再発をたいへんに恐れた。六波羅探題には軍事力が常備され、朝廷の動向を厳しく監視した。天皇上皇が新しい武力と接触することは不可能であったから、こののちずっと、朝廷は自前の軍隊を保有し得なかった。右の院宣はまさに「日本国憲法第9条」だったのである。

おもしろいですね。天皇の伝統においては、憲法9条、をすでにやってたんだ。だから、敗戦後、すぐに、憲法9条、を入れることは、昭和天皇にとっては、奇異なことでもなんでもなかった、というわけだ。
こうやって考えていっても、天皇という「イエ」にとって、別に、日本、というものが、特別ななにか、ということではない、ということなのであろう。日本、という、そこに住んでいる住民と、ほとんど、関係ない人たちだということなんでしょうね。別に、アメリカが、主従を誓い、守ってくれると言うんなら、拒否する理由もないわけだし、今まで通り、なんですね。
さて、このように、天皇、朝廷の権力は、どんどんと、低下の一途をたどるわけですが、それがどういうものであったか。

天皇になるには幕府の承認が必要である。一方で、幕府の将軍はあくまで北条氏などの武士が決定する。天皇に干渉する権限などなく、征夷大将軍への任命は言われるがままに行われる。幼い皇子を将軍に、と望まれれば鎌倉に下す。皇子=将軍が成長して政治に関心を持つようになりました。色々と面倒なので将軍職を剥奪して京都に送還します、と通告されれば唯々諾々として受け入れる。

今でも、どこか、日本の歴史において、ずっと、天皇は、偉かった、と思いたい。そういう部分が、日本人には、残っている。戦中の教育の賜物なんでしょうけど、実体は、そういうものじゃない。実質、「だれが天皇になるか」は、その時々の、幕府によって、幕府の都合のいい人間が、「この人がこれからの天皇です」、と、なった時期もあった、ということなんですね。
なんだかなー、と思わずにはいられないが、そういうことなんですね。権力を失うということが、なにを意味しているか。武力を奪われ、それでも、なぜか、続けさせられているその、スタイル、構造、とは、別に、特別ななにか、であるはずがない。国民が、国家によって、(税金を払うために、)「生きさせられる」ように、天皇という伝統は、本人たちは、なにもかもを奪われ、なんでこんなことをいつまでもさせられているのかに疑問をもちながらも、それでも、幕府によって、絶やすことを、許されなかった、ということなのだ。
しかし、それは、幕府の側にとって、一つの見識であるわけだ。つまり、天皇を中心とした朝廷の勢力は、他の武力集団にかつがれて、錦の御旗とされてしまう可能性がある。そうであるなら、大事なことは、そうならないための手立てをこうじることで、彼らの抹消を目指すことではない。いや、むしろ、そういう発想がおもいつかない、といった方が正確なのかもしれない。
建武の中興、にしても、どう考えても、戦中の皇国史観は、過大評価しすぎであろう。

後醍醐天皇はこうした情勢を鋭く見抜き、幕府の打倒を呼びかけて挙兵した。それは重大な事件ではあったが、実効性を伴っていなかったから、この段階では幕府は微動だにしなかった。天皇が捕縛されて隠岐に流されると、護良親王が粘り強く畿内の悪党勢力を味方に付け、ゲリラ戦を展開する。隠岐を脱出した天皇も、再び幕府を討つように訴える。それでもいまだ、幕府を否定し切る道筋は見えなかった。
事態を一変させたのは、1333年4月の足利高氏の挙兵であった。源氏の正統と目されていた高氏は、全国の有力武士に協力を呼びかけた。その効果は大きく、武士たちの旗幟を北条氏打倒に変ぜしめた。彼らを率い、高氏は六波羅を攻撃する。関東でも事態は同様で、御家人たちは高氏の子の千寿王のもとに馳せ参じ、鎌倉を攻撃した。かくて高氏挙兵からわずか一ヶ月後、北条氏政権は鎌倉でも京都でも崩壊する。
だが、一般の武士たちは、幕府機構そのものを否定したわけではなかった。それは当時の将軍守邦親王が討伐の大正となっていないことでよく分かる。宝治合戦では有力御家人三浦氏が、北条氏に取って代わらんと挙兵した。霜月騒動では安達氏が北条氏に挑戦した。今回は足立殿が立ち上がったが、もう我々は北条殿の政治運営にはついて行けない。足利殿と一緒に幕府を立て直そう。それが鎌倉幕府崩壊時の当事者たちの常識ではなかったか。不思議なことに今までどの研究者も指摘していないのだが。

しかし、そうだとしたら、なぜ、武士たちは、この、京都の、天皇、朝廷、を存続させるのか。
それについては、以下の問題を、著者は指摘する。

鎌倉時代に中国から銭幣が大量に流入して物流が急速に盛んになったとはいえ、当時の生産の基本はいまだ耕地であった。それゆえに統治権者に期待されたもっとも重要な働きは、鎌倉時代と同じく、在地での土地所有の保証であった。幕府は全国に将軍の分身たる守護を置き、地域に根ざした権力として位置づけた。守護を媒介として、将軍と在地領主の主従関係は再確認される。守護は在地領主の土地所有を保護し、その代償として軍事力の提供を求めた。
南北朝時代の守護は、中央の威光に依存した。独力で何かを遂行する勢威を、いまだ任国内に築けずにいた。将軍や幕府の権威を借用し、土地の安堵の実現に努め、軍事力を編成する。この作業を巧みに遂行した者が守護大名として生き残り、失敗した者は淘汰される。没落した守護の任国には代替者が京都から派遣され、やがて顔ぶれが固定する。北陸の斯波、南畿の畠山、四国の細川、山陰の山名などの各氏は、その代表である。
守護大名は京都と連携してこそ、その権力を行使できた。京都を源泉とする支配が、在地で実体化したのである。こうした状況の下で、土地を安堵する体系として、京都を頂点とする「職(しき)の体系」が用いられた。かつて在地で荘園を経営する領主(武士)たちは各国の国衙(県庁)による荘園の収公におびえていた。そこで荘園が産出する利益の多くを天皇などの貴人に上納し、国衙の動向を抑制した。この結果作り出されたのが職の体系である。それは京に居住する天皇・貴族・大寺社を上位者(本家・領家)と仰ぐ、平安時代以来の土地所有の方法であった。
先の師直のことばを満て欲しい。彼は土地をかすめ取れ、と言うが、それは「職の体系、荘園制」への寄生に他ならない。荘園制を根本から否定するのではないのだ。この事例に明瞭なように。幕府はついに「職の体系」を超える理論を、用意できなかった。土地所有に関しては、室町幕府は、天皇の方法を乗りこえられなかったのである。

おそらく、この辺りが、実際の理由なのだろう。
前にも書いたが、国家において、もっとも重要なことは、年貢のとりたてに成功することである。なぜ、庶民は、税金を払うのか。なぜ、庶民は、自分の「モノ」を他人に奪われずにいられるのか。もし、自分が相手の財産を奪い、一つの財産を築くなら、どうして、その財産を他人によって奪われないですむ、と思えようか。
そこには、どうしても、認めざるをえない、真実がある。
どうしても、超越、がなくては、「ならない」のである。
なんらかの、超越的な、なにか、によって、自分「だけ」は、とにかく、この連鎖を解脱したい。その欲求にどうして、とらわれずに、いられようか。
まあ、こういった、のんき、なことを言っていられたのも、この、大陸系にはない、島国の、のんびりした、時間の流れがあるのかもしれない。
さて。
では、この日本において、この、天皇という、なにかを、乗り超えた存在がいたか。
著者は、一人、いた、という。
織田信長、である。

信長は地球儀や地図を前にして、宣教師たちの話を聞くことを好んだという。中国に関する知識は以前から幅広く持っていたようであるが、東アジアはもとより、ヨーロッパの事情にも通じていたと思われる。いまに遺されている文物から見るならば、信長は南蛮趣味を思い切って導入している。他の事例から推量すると、「かたち」だけでは終わらないのご信長の文化への対応であるから、それは相当量の情報が移入されたことをも示しているのだろう。

今の大河ドラマを、多くの人は、やりすぎ、と思うだろう(よく、あんな、新潟ローカルな話を全国でやってくれて、ちょっと、感謝なんですけどね)。あんな、ホテルのバスローブみたいなのに、ワイン?
しかし、そうですかね。
信長は、もっと、突き抜けていたんじゃないですかね。分かりませんけど。

天皇はなぜ生き残ったか (新潮新書)

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