礫川全次『皇国と攘夷』

備仲臣道、という方との、対談。
二人とも、いわば、市井の、在野史家、ということなんですかね。
なかなか、おもしろく読んだ。
この、備仲さん、という人の、民衆史観、による、明治維新論、であるが、こういう視点は、どこか、奇異に思えなくもない。なぜなら、民衆を歴史の主役と考える視点が、日本の歴史学において、弱いからであろう。しかし、例えば、フランス革命や、ロシア革命における、レーニン、のような視点から、歴史を見るならば、むしろ、そう考えないことの方に、なんらかの、バイアスがあるのではないか、という考えにもなってくる。
備仲さんという人は、朝鮮半島出身でもあるようだし、労働組合、の運動家でもあるということで、こういう傾向があるのだろうか。
また、備仲さんは、朝鮮侵略史観こそ糾弾に値する、という姿勢は、一貫しているとも言える。西郷も、それどころか、坂本龍馬、でさえも、彼の立場から考えれば、朝鮮侵略史観、なのであり、唯一のよって立てるところとは、「民衆」なのだ、と。
まあ、レーニンであれ、トロツキーであれ、社会主義、は、その立場を貫いてきたわけですからね。
そこから、備仲さんにとって、日本の朝鮮侵略の問題点とは、むしろ、朝鮮内部から、わき上がろうとしていた、民衆による、国民運動を、日本軍が、徹底的に破壊したことに対するものになる。
さて。
だれもが、忘れているのだ。
江戸末期、の民衆がどういった存在であったのか、を。

翌1733年になっても米価は上がりこそしても安くならなかった。町民の再三の要求に対し、女は一合を与えよと命令を出すに至った。幕府の命令により米の買占めを行っていた特権敵御用米穀承認高間伝兵衛の屋敷を、江戸町民の打ちこわしが襲ったのは1月26日夜のことであった。二千人の都市民は門を壊して屋敷の中に乱入すると、家財を引き出して門前の堀に叩き込み、取引の帳簿類もすべて敗り捨ててしまった。

司馬遼太郎と朝鮮―『坂の上の雲』‐もう一つの読み方

司馬遼太郎と朝鮮―『坂の上の雲』‐もう一つの読み方

忘却の彼方にでも、行ってるんでしょう。
日本には、「ロシア革命」が、ある意味、あった。明治政府、は、その事実こそ、隠蔽したかった。
たとえば、備仲さんは、明治維新における、赤報隊、を重要視する。
赤報隊、は、薩長土佐連盟が、もし、政権を奪取できれば、民衆の、重税が半分になると、ふれて回り、そのことによって、民衆を、明治政府の味方とする役割をになっていた。しかし、ときの政府にとって、赤報隊とは、ヒットラーにとっての、レーム、のように、出世のための便利な、かませ犬に使われるだけに終わる。この、約束がもしなかったなら、明治政府は、これほどの、民衆レベルの支持を受けられたと思うだろうか。備仲さんの視点にとっては、この境界は、非常に重要なポイントとなる、ということなのだ。
もともと、明治政府がこれだけ財政が逼迫していながら、税金を半分になど、できるわけがなかった。最初から、国民を「だます」ことによって、政権をかすめ取った連中なわけで、そう、認識すべき、ということなのだろう。
全然関係ないが、最近、歴史というものについて、少し考えが変わってきた面がある。それは、直前に紹介した本でもあったが、人口の問題である。この日本列島に、住んでいた人間が、今、1億5千万人、位ですか。ところが、つい最近の、江戸時代でも、2000万人くらい。それ以前になると、もう、何百万の世界でしょう。
この、桁違いのことを考えると、確かに、ご先祖ではあるんだけど、どこか、次元が違って来ていると言えないのかな、とは、思うわけです。
現代において、それだけの、人口を維持できているということは、それだけ、安く輸入して、外貨を稼いでいるということなのか。さまざまな面、で、便利になっていることも、大きいのでしょう。
そうなると、たんに、過去の人物に注目し、現代を既視することには、限界があるのだろうな、というようなことを思ったというだけです。
同じような話として、以下のようなことがある。

ところで、1873年(明治6)の統計を見ますと、平民が全人口の93・41%で、華族・士族・卒族が5・7%、僧・神官が0・87%だったことが判ります。おそらく幕末のころもこれと同じであったと考えていいと思いますが、そのころは華族などの名称はなかったけれど、公卿や諸大名がこれにあたるのですから、同じことと思います。

この数値は、大変、興味深い。
武士とは、何者であったのか。
私たちは、「誰」を武士と呼んでいたのか。
例えば、西南戦争、を考えてみてもいい。これが日本において、最後の内戦、と言われている。これによって、明治政府は、多額の費用を裂くことを余儀なくされるのだが、しかし、その主人公たち、下級武士は、一体、何人、なのか。なぜ、この国民の10%にも満たない、幕末の武士集団「だけ」が、まるで、仲間内の「ケンカ」のように、殺し合い、を行うことになるのか。
私たちにとって、戦争とは、志願兵、のイメージ、または、徴兵制、のイメージ、がある。自ら、志願するか、赤紙で徴兵されるか。
しかし、どうも違う。
この、殺し合い、のカテゴリーには、百姓や商人などは含まれない、ということなんでしょう。つまり、「国民」意識がどうも感じられない。
彼らは「日本人」ではない。
武士、という、下は、エタ、ヒニン、から初まる、階級社会の、頂点に位置する、階級的存在、だったということなのだろう。
農民や、町民の、一揆、打ちこわし、が、江戸末期、から、ひんぱんに多発するようになってきて、どうも、この武士を中心とした、政治組織は、その維持・存続に、限界が見えてきていた。
そのとき、薩摩藩は、いち早く、琉球の植民地化、に成功することになる。彼らにとって、世界中で起きていた、欧米列強による、植民地化が一体どういうものであったのかの、イメージがつきやすかったのであろう。日本が、この後、朝鮮半島を侵略していくとき、この琉球のイメージは、欧米列強のインドや中国などへの、コロニアリズムのイメージの並行性があった。
世界中で、船舶による移動が比較的容易に行われるようになって、さらに、軍艦、大砲など、地域によって、軍事力に差が明確になってきた、つまり、圧倒的な、欧米列強の、軍事的な有利さが、明瞭になったとき、世界の、植民地化、分割化、がいよいよ、進行していた。世界は、「万民公法」にあるように、一等国、から、三等国、に分類されるようになる。
そういった認識が、多くの有産階級に、浸透してきた中で、イギリスの軍艦と大砲による攻撃を受け降伏した、薩摩藩にとって、「だれが支配者であるか」、自分たちが奉行すべき相手なのかは、まったく、自明ではなくなっていた。江戸に鎮座している、将軍に、どれほどの意味があったか。
しかし、この認識には、アイロニーがともなう。
なぜなら、下級武士の、アイデンティティとは、最初から、この武士という最上流階級、というところにあったはずだから。
彼ら、下級武士にとって、徴兵制、や、皆義務教育、とは、想像を超えるものであっただろう。「いくさ(戦)」というものは、彼らの、アイデンティティなのだから、そこに、なぜ、百姓などが、関係するのか。
さて、江戸から明治に変わったことで、最も、大きな変化はなんでしょうか。
もちろん、「武士の消滅」なんです。
ということは、どういうことか。藩、がなくなった、ということ。郡県制、になった、ということですね。つまり、世襲じゃなくなったんです、国家公務員、が。
武士、は、たしかに、多くの給料がもらえたわけじゃないし、質素倹約、ばかり言われ、貧乏暮し、をしていたわけだが、少なくとも、問題を起こさない限りは、未来永劫の、「イエ」の存続は、その藩によって、保証されていたわけですね。これは、手持ちのお金なんて比べものにならないくらいの、生活保証だったわけでしょう。
恐しいことに、これほどの「権利」が、明治政府によって、一瞬、で、反故にされたんですね。
このことこそ、その後の、日本の紆余曲折の、最大の理由なのでしょう。
その後の日本は、ものすごい数の、「テロ」、ばっかりです。
アルカイダ、がどうとか、最近の日本政府は、のたまうけど、そんなもの比較にならないほどの、日本中、テロ、だらけの歴史じゃないですか。
わかってますでしょうか。日本の歴史、ほど、テロ、が、いつまでも、続き続けた国はないんじゃないですかね。
たいていの日本史上の有名政治家。ことごとく、死因が、テロ、じゃないですか。
しかし、テロ、とは、本当に捨て身の最後の戦法なわけでしょう。こんなものに全てを賭けているところに、士族たちの、追い込まれ方の、尋常なさが、わかろうというものでしょう。
テロとは、一つの原理主義、ということなのでしょう。国民の「思想・信条」によって、「敵」レッテル、をはりつけていく、原理主義的行為は、究極的には、世界中で起きた、国民大量虐殺、に向かうでしょう(カンボジア、や、ソ連、の大量虐殺。どうして、左翼をばかにできようか)。おそらく、日本のマスコミ保守、にその自覚はないでしょう。いや、むしろ、それでいいんだと思っている、つまり、原理主義者、なんですね。
私は、本当の意味で、このこと、つまり、武士の権利の消滅、について、熟考している人って、日本でも、ほとんどいないんじゃないか、とは思うんですね。よく考えてもらえばわかると思いますが、ここまでの、今まで存在していた、権利が、消滅するということの意味ですよね。
本当に、今の日本の年金生活者たちに、明日からの年金の支給を止める、というのと、同じですよね。明日、急に、政府が銀行をさし押えて、貯金を没収します、というようなことなわけでしょう。
ものすごい不満の嵐となったのは、当然なんじゃないですかね。
しかし、明治政府がやったことは、巧妙で、いわば、上ずみ、つまり、徳川家、などの、本当の各藩の、頂点の部分だけは、「貴族」階級、として、貴族院、にしたんですね。
非常に分かりやすい。つまり、その他一切の、下級武士、は、たんに、「野に放たれた」。彼らが、アナーキーな、テロ集団になることは、ある意味、当然だったということでしょう。
しかし、掲題の本にもあるが、大久保利通などは、あまり、武士階級のテロを、自分たちの権力基盤の決定的な危機と考えていなかった雰囲気がある、という。むしろ、彼にとって、恐るべきことは、民衆による、一揆、打ち壊し、だったと。
このことは、どう考えればいいのだろうか。
さて、ここから、著者二人は、征韓論、の問題に議論を移していく。
例の、明治六年政変、である。
この事件こそ、日本の歴史にとって、さまざまな意味で、象徴的である(この事件をきっかけに、自由民権運動も始まる)。著者二人の認識は、西郷隆盛、が、非侵略的、であった、という、最近、はやり、の認識に対し、懐疑的な態度、である。そもそも、西郷は、政府の一員であったわけだから、非侵略的思想をもっていたと考えることには、無理がある。つまり、西郷にとって、その朝鮮を日本の実質支配の中に置くプロセスは、別に、軍事的征服である必要はない、というレベルの違いだったのではないか、ということなのだ。それは、薩摩にとって、琉球との関係をどう考えてきたのかにも、関係するのかもしれない。
そもそも、下級武士、によって構成された、薩長土連合軍、による、明治政府は、どんなモチベーションによって動いていたのだろう。
たとえば、なにもかもを、維新政府によって奪われた、過去の世襲国家(藩)公務員たちが、それに代わる何かを政府に求めることは、当然なのでしょう。
さて、では、この代わり、代償として、提供されたものは、なんだったのでしょうか。
それは、間違いなく、国外の、侵略先の、地域の権益であったのだろう。下級武士、たちが、その後、どのような末路をたどったか。

こうした状況の中、大久保利通は、版籍奉還後の不測の事態に備えるべく、薩長土肥四藩から藩兵を徴集することを提案します。これに対し木戸孝允大村益次郎は、徴兵制による直轄軍創設を主張しました。毛利先生によれば、こうした意見の相違は、政府が警戒すべき相手を「民衆」と見るか、「不平士族」と見るかという違いから生じたものでした。大久保は民衆の動向を警戒して、これを士族の軍隊で抑えようとし、木戸や大村は、不平士族の動向を警戒して、これを徴兵軍で抑えようとしたというのです。結果的には大久保の主張が通り、1871年(明治4)2月、薩長土三藩の献兵によって「御親兵」が設置されました(翌年三月、「近衛兵」と改称)。

もちろん、だれもが知っているように、そのすぐ後で、皆徴兵制が、始まる。しかし、この日本の軍隊の最初が、薩長土三藩の武士から、構成されたことは、非常に重要である。このことこそ、その時期、日本が、その三藩によって、支配されていたことを証明する、最も明瞭な証拠であろう。
その時期、日本は日本ではなかったのだ。その三藩によって、コンキュアー、征服、されていた。
さて、下級武士、はどこに行ったのだろう。普通に考えたら、軍人、しかも、将校クラス、になって行ったのだろう。そして、庶民を、戦場で、死に合い、をするようコマンド(指示)する、そういう「上流階級」になった。これが、戦後の、軍人恩給、にもつながったと考えることは、うがった見方すぎるだろうか。
最後ですが、坂本龍馬をなぜ、司馬遼太郎は、絶賛したのか、ですが、礫川さんは、備仲さんの龍馬批判を受けて、次のような指摘をする。

ここで、ちょっと坂本龍馬の評価という話題に戻るのですが、先ほど備仲さんは、龍馬にはかつて「共和思想の匂いが濃い」という評価があったことに言及されていました。これは、司馬遼太郎の言葉だというお話でしたが、もし龍馬をそのように評価するとすれば、その根拠は、筆者不詳の『藩論』という文献以外には考えられません。

夫レ天下国家ノ事、治ルニ於テハ民コノ柄ヲ執ルモ可ナリ乱スル於テハ至尊之ヲ為スモ不可ナリ故ニ天下ヲ治メ国家ヲ理ムルノ権ハ唯人心ノ向フ処ニ帰スヘシ
天下国家のことは、治まる場合においては、人民が権力を執ってもよい。乱れる場合においては、天皇は治めたとしてもうまくいかない。つまり、天下国家を治める権力は、ただ人心の向かうところによって決定すべきである。

まさに、これは共和思想といってよいでしょう。

藩主先ヅ臣下ニ盟約ヲ立テ亜キニ家格ノ制ヲ滅シ世禄ノ法ヲ絶シ一旦官等ヲ廃シ級爵ヲ収メ闔藩混合平均シテ更ニ同領庶生ノ尋常大公会ト見做シ然シテ後チ其藩ノ大小其藩ノ大小其臣ノ多寡ニ準シテ予シメ定則ノ人員ヲ期シ各々望ム処ノ人名ヲ進メシムルコト世俗入札ノ式ヲ用テ衆人徳望ノ帰スル人物ヲ撰ムヘシ
藩主はまず臣下に盟約を立て、次に家格の制や世禄の法を廃止し、また一度、上下の官・級・爵といったものを廃止して、藩全体を混合平均して藩を平等な藩士の共同体と見なし、その後にその藩の大小や藩士の多少に準じて、あらかじめ一定の人員を定めておき、藩士がおのおのの望むところの人名を、世間で言う入札の方法によって衆人の徳望の集まる人物を選ぶべきである。

これなども、かなり大胆な発想です。さらにこのあと、『藩論』は、「封内庶民ノ選択」にも言及しています。まさに共和思想です。藩士あるいは武士という身分にとらわれた者には、絶対に思いつかない発想ですが、「郷士」といっても、実質的には才谷屋という商家に生まれ育った龍馬であれば、こういった発想を持ちえたかもしれません。

いずれにしろ、司馬遼太郎が龍馬にみた、ネタ元、はこのあたりのようで。小説は、たんなる、物語ではなくて、その著者の見識が露骨にあらわれるものですからね。

攘夷と皇国―幕末維新のネジレと明治国家の闇

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