第三者委員会

今回の、小沢さんへの、西松建設による、献金にともなう、秘書の逮捕、という事態になった、事件について、民主党の要請によって、第三者委員会、が結成され、最終的な報告者が出たようだ。
結果もそうなのだが、どちらかと言うと、むしろこの、経過とそこで話されていた議論そのものが、興味深いものだったんじゃないか。
報告書そのものは、pdf で、ネットにもころがっていて、誰でも読めるのだが、そこに書いてあることの、さまざまな、法律論、なんですね。
物象化論、というのがありますね。人間は、どうも、抽象的なものが、苦手な存在のようである。めんどうな議論は、ひとたび、当事者にでもならないと、関心の外になる。だから、キリスト教なら、天国の定義だとか、神とは何か、とか、そういうことは、全部すっとばして、立派な教会を指差して、これだよ、ってことになる。
こうやって、難しい抽象論は、物象化される、物として、印象にされる。小沢さんのいかつい顔なら、ああ、あくどそうだな、で話は通じる、というわけです。
しかし、この委員会の最後の記者質問にもあったが、小沢さん、何億円なんて、もらってないんでしょ。他の自民党の議員と同じくらいで、何千万なんでしょ。自由党などの、政党への献金から、なにから、すべてひっくるめて、何億って数字をひっぱりだしてきたのかどうか知りませんけど、まったく、その数字の根拠も明らかにされずですか。
どうも、一方の当事者の、検察、法務省、はこの問題の国民への説明を「放棄」したようですから、裁判の経緯を見守るしかないのでしょう。
しかし、この報告書の中身は、どうでしょう。
むしろ、おもしろかったのは、この議論の中身なのですね。
優秀な大学の先生たちが集って作ったこの内容に、何が書かれているか。
検察権の今回の適用にとっての、その法的な裏付けには、その法に書かれている、一言一句の解釈もおろそかにできない。国家による警察権力の国民への行使には、一人の人間の多くの権利を奪う事態をもたらすわけです。その権力行使があいまいであるなら、それは、その権力の、「法治国家としての」、正当性に多くの支障をきたすでしょう。
法治国家論によって、成立している権力がもし、その法治国家アーキテクチャを逸脱して、権力を行使し続けるなら、その正当性の疑義が生じ、そして、この問題は、当然ですが、革命論に、つまり、その権力組織の革命の正当性の担保につながるでしょう。
麻生さんが小沢さんの政治生命を終わらせたかったから、逮捕した。たとえ事実がそうであったとしても、それでは、法の裏付け、をもたない、ということになるわけですね。法の裏付けをもたせるなら、その政治資金規制法、の、一言一句の解釈も含めて、その解釈の正しさ、つまり、合理性を争わなければならない。
法があいまいであるとするなら、その法そのものの適用の正当性が問われることになるだろう。それは、行政権力の、怠慢とみなされても、おかしくない。
ようするにこれは、法治国家の問題であり、ということは(最近の私の整理でもうしわけありませんが)、この日本を、一人、「作った」、江藤新平、の日本政治システム構想、の範疇ということですかね。
国家は、三権、によって、互いに牽制し合いながら、その権力を抑制されつつ、進んでいくという、この、三点均衡、トリロジーは、実際の運用において、一見、抽象的で無意味のように思えるが、これは、一つの機能主義、ですね。
カントの3批判も、さまざまな議論が、こういった、3つのサブジェクトの牽制関係で成立していたが、近代の理性とは、こういった、それぞれの立場に各人を立たせて、その役割を粛々とまっとうさせることによって、社会は安定する、という方針だと言えるのではないでしょうか。そこで重要なのは、それぞれは、他の二者が行っている仕事の「一切を」担わない、ということと、間に介在する言語が、顕在化、することなんですね。
まさに、分業であり、資本主義の産物ですね、近代的なんですね。
ある意味、なぜ、分業なのか、無駄な手続きが発生して、効率が悪く思われるが、問題は、これが、契約、つまり、合意形成のプロセスと深く関わっていることですね。それぞれ、自分の欲望に基いて、相手の仕事をやりたくても、やれない。自分の役割をこなすしかない。そして、この場合、意志伝達が、なによりも、重要になる。その、意志伝達のための、言語活動が、洗練されていく。
法の整備は、このシステムのインフラであり、なによりも、重要であろう。しかし、それ以前に、なによりも、論理的に整合的なのかが、決定的なのだ。それがない放言では、その権力の正当性は、あやしいのだ。