中井久夫『分裂症と人類』

初版は、1982年。古典的な名著ですね。
心理学、とは何なのだろう。この質問の意味するところは、深い。フロイトから始まるとされる、心理学、精神分析は、医療機関における、一つの分野として、確立さえしている。
しかし、その研究成果、とはなんなのか。なにか、科学としての、根底的なものを確立しえたのであろうか。
そう考えてみると、この課題が、あまりに困難な道であることが分かる。そもそも、人文科学は「成功」しているのであろうか。
もちろん、その問いに、有名な、フロイトの、オイディプス・コンプレックスなど、さまざまな理論を、どのように位置付けたらいいのか、ということも含めていい。さまざまな、哲学者たちの放言を、どのように扱ったらよいのか。
しかし、である。
そんな、人類が始まってから、えんえんと続いてきた、学問を全否定するようなことを言っておきながら、他方では、「医療行為としての」、心理学・精神分析は、日々「行われている」、という、前半で言っていたことを、全否定するようなことが、世界中で実践されている、というわけだ。
毎日の、病院内の、精神科、というところでは、今でも、世界中で、「医療行為」が行われている。
はて、どうしたことか。
そして、よく分からないが、「治った」、という患者たちの、先生(医者)たちへの感謝の言葉が、日々、発せられて、患者は、「健常者」として、その病院を去っていっている(ちょっと劇画化しすぎですかね)。
医療行為とは、言わば、患者と医者の、対関係のことを差すわけで、そこで、お互いの、ある言語的な、関係、構造が、作られるわけですね。患者は、医者と、「話す」。医者も、質問する。患者は、さらに、答え、...。こういったやりとりの中で、ある人間間の言語構造的なパワーバランスも成立していく。そういう意味では、そこでは、何かが生まれている。実際の医療現場では、精神安定剤などの、薬を配るくらいしかできないのだろうが、昔からある、占い師や、祈祷師のような、予言者的振る舞いをする存在として、この現代社会において、必要とされてきているのかもしれない。
さて、掲題の著者は、人間の一つの病的形態を、指摘する。

なかでも、自転車で人ごみのなかを突っ走ると起こりやすい場合があるのは興味がある。当然、追いぬく人の会話の一句二句をひろって走ることになる。この切れ切れに耳に入ってきた人のことばは、それ自体はほとんどなにも意味しないのだが、いやそれゆえにと言うべきか、聴きのがせぬ何かの(たとえば自分への批評への)兆候となる。

もし不安に駆られて完璧な予測を求めようとするならば、これは t = 0 における完全微分を求めることで、かえって相手の初動にふりまわされてしまい、発症のごく初期に見られるごとく身近な人物のほとんど雑音にひとしい表情筋の動きに重大で決定的な意味をよみとり、それにしたがって思い切った行動に出る。

それでもなお、彼ら[現在の狩猟採集民たとえばブッシュマン]が三日前に通ったカモシカの足跡を乾いた石の上に認知し、かすかな草の乱れや風のはこぶかすかな香りから、狩りの対象の存在を認知することに驚くべきである。ブッシュマンは、現在カラハリ砂漠において、彼らに必要な一日五リットルの水を乾季にはほとんど草の地下茎から得ているが、水分の多い地下茎を持つ地表の枯蔓をそうでない草のそれから識別する能力にもまた驚くべきである。

いわゆる、スキゾってやつなんですかね。
よく考えると、上記の、自転車の場合も、なぜ、その一句を、どうでもいいこと、として、多くの人が気にしないでやりすごせるのか、なぜ、こだわらないでいられるのか。その境界線はどうなっているのか、こういったことを考えていくと、不思議な感じもしてくる。
そもそも、病的とはなんなのか。そんなに簡単に分割できないものだとするなら、その概念を要求しているものは、なんなのだろう。それは本当に個人の話なのだろうか。その人を、病気とラベリングを「したがる」社会があるだけの話なのではないのか。
いや。もっと言えば、私たちが日々使っている、この言語。これは、どこまで、「成功」していると言えるのであろうか。この言語は、どこまでのことができるのであろうか。私たちが一般に病気と言っているのは、むしろ、この言語の限界にぶち当たりながら、それをなにか、超越的に、ぶち破れるとまるで、ドンキホーテのように風車に突撃している姿を差して、言っているのではないか。
著者は、この本全体を通して、この、精神医学の現代までの移り変わりが、さまざまな、文明の変化に、対応していることを、強調する。
例えば、著者は、向精神薬、の発明の重要さを主張する。つまり、向精神薬、の発明が、人類社会を、「現代」、にしたというのだ。これがどこまでのことかの判断は置いておいても、人間は、ときどき、「壊れる」。ヒステリーを起こし、パンチ・ドランカーのような存在になるものが、人間、と考えられてきた、つまり、自然、の一部であった人間は、この、向精神薬、によって、けろっと、今までの、普通の生活を始めた姿によって、一つ、自然を抜けだした、自然を支配する側に人間がシフトした、というようなアニミズム的なものからの、脱却を意識させたのではないか、というのだ。事実、この後の、近代科学の、驚くまでの、発展は、著者の主張を充分に補強しているようにも思える。
例えば、著者は、中世ヨーロッパを席巻した、魔女狩り、に注目する。この蛮行が、中世を席巻したことは、なかなか興味深い。なぜ、この事実が重要であるか。なぜなら、これが、その後の、ナチス共産党の大量虐殺に、「続く」、からである。

しばしば魔女は飢饉のあとのたまさかの豊作を祝うカーニヴァルで群集の歓呼のうちに焼かれた。

魔女とされた、多くの美しい、年頃の女性。彼女たちを、祭の間、目の前で、縛られたまま、火で焼かれて、肉がこげていく。大変な叫び声を「狂ったように」上げたことでしょう(それがまた魔女の証明とか言うんでしょう)。しまいに、丸焼きは完成して、死んだ。それを「祝う」わけです。きっと美しい女性であればあるほど、その祭の豊穣を願う効能はあらかた、ということなのでしょう(魔女狩りで焼き殺された女性は、ものすごい数になるわけですね)。いけにえの犠牲が大きければ大きいほど、豊穣の神の、めぐみも大きいというわけですか。
これが、ヨーロッパ、の真の姿、なのでしょう。

魔女に着せられた罪は、大半が、収穫が予定どおり行なわれなかったとか、牝牛が乳を出さなくなったとか、嵐が収穫をだめにしたとか、畑に多数のかたつむりが発生してキャベツ畑を荒らしたとか、生産力の減退に関するものであったことを強調したい。

こういうことは、いつもの話なわけで、貨幣経済の当時の浸透が(それによる自立した女性の登場も)、社会不安をひき起こしたとか、いろいろ言えるのでしょう。しかし、むしろ重要なのは、なぜ、この蛮行は、無くなっていったのか、なのです。著者は、オランダのいち早い魔女狩り消滅に、オランダという国の特性、小さい国土で、標高も低い、国家をまわすには、積極的に、近代科学、近代思想をとりいれていくしかなかった、事実、科学の発展、精神医療の早くからの普及、そういう姿をみるわけですが、どうなんでしょうね。それは、成功しているのでしょうか。この辺りの説明があんまり説得的でない気がするが、そもそも著者にとっては、医学部のこの精神疾患治療の進展に、無理矢理、人間社会の進展をオーバーラップさせようとしているわけですからね。いずれにしろ、海外植民地はもう少し先でしょうけど、いろいろ産業構造も変わっていったのでしょう。あまりやり過ぎると、若い女性もいなくなるわけですし、日本の第二次世界大戦の敗北受諾にしても、あまりやりすぎると、本土決戦とか言って、さらに、中心都市にあらかた、原爆落とされようものなら、とか、そういうことなんですかね。