高橋裕史『イエズス会の世界戦略』

日本の、西洋文化に対する、ファースト・インパクト、といえば、もちろん、フランシスコ・ザビエル、などの、イエズス会、であろう。
しかし、このことは、よく考えると、ずいぶんと奇妙なことに思えてくる。
日本は、西洋に、「征服」されたのであろうか?
彼ら、イエズス会の連中は、この日本で、何をしていたのであろう?
私には、今までのいろいろな歴史研究でもないけど、いろいろ見てきて、この人たちは、なにしてるんだろう、という気持ちがぬぐいきれない。
時は、戦国時代、諸大名が、天下取りのため、しのぎをけづっていた時代である。この時代に、圧倒的な破壊力をもつ、軍事兵器を、諸大名に、みせびらかし、やって来た、キリシタン。諸大名も、最初は、ものめずらしくもあり、一定の保護はしたかもしれない。
しかし、こんな、あやしい連中は、世界中を探してもいないだろー。
徹底して、あやしまれるのが、おち、じゃないか。しかも、どんどん、信者を獲得しているという。どんな大名でも、うさんくさく思うでしょう。
イエズス会は、諸大名による、弾圧を受け撤退、縮小していく中、長崎を中心とした、「城塞」、自分たち信者を守れる要衝の構築の必要性を訴える。しかし、それは、裏返せば、本格的な、軍事的な、装備に踏み切ることを意味する。つまり、この国の軍事的侵略ととらえられることは、必定であろう。
戦略のない、軍事的侵略が、返り討ちに合わないと考えることの方が、どうかしているであろう。
つまり、なにがしたいのかが分からないのだ。
著者は、その辺りの解析にあたり、イエズス会における、「規則」、に注目する。彼らは宗教者である。ということはどういうことか。厳格に決まったいる、規則に則って生きている人たちなのだ。
イエズス会は、当時においては、新興勢力であったわけで、そうでありながら、インドなど、多くの遠方に進出を成功させていた。ポルトガル国家からの、援助も、充分ではないながら、あったという。ですから、この問題を国家の方から考えるなら、以下になるだろう。

これら東洋における征服事業によって、現在さまざまな地域で国王陛下に対して多くの、また大きな門戸が開かれている。これは主に対する奉仕と大勢の人びとの改宗にきわめって役立っている。これらの征服事業は霊的な面だけではなく、それに劣らず陛下の王国の世俗的な進展にとっても益するものである。それらの征服事業のなかで最大のものの一つは、閣下のすぐ近くにある、このシナを征服することである。......これは主や国王陛下への奉仕にとって非常に重要な行為なのであるが、その事業に関して手にすべき真の計画なり、情報なりを提供できるような者はほとんどいない。そこで、私が当地で得た経験をもとに、その件のためにわかる若干の重要な事柄について、閣下と相談することが可能ならばとても嬉しい。そして的を射た計画が立てられることを希望する。なぜなら的確な計画を立てないで征服を実行すると、シナ人との貿易を失い、しかも莫大な経費を要するにもかかわらず、何一つ益するところがないため、国王陛下の財産に莫大な損害をもたらすのは疑いないからである。

イエズス会が、国家の援助を受け、活動するなら、それは、国家側の期待に沿うものであることが必要であろう。もっと、侵略的、観点での行動もありえただろう。
しかし、そういう感じではない。

たとえ異教徒であっても大勢の領主は、領内にパードレたちが身を落ち着け、教会を設け、キリスト教徒を生み出すように尽力する。なぜなら、こうすればナウ船やあるいはパードレから、その他の色々な利益を獲得できようと大勢の領主が判断しているからである。日本人は、自分の主人には非常に従順なので、主人がそうするように命じたり、あるいはそれが主人の意志であることを理解したりすると容易に改宗する。

彼らは、純粋なのだ。つまり、この地球の裏側の日本まで来た人とは、宗教者であったわけだ。ただただ、自分たちの信仰を世界に広めることを使命として、来るわけです。
彼らは、日本の習俗を徹底して学び、国からの援助の不足分を、貿易に関わることで、商売に手を染めることで、やりくりをしていたが、最後は、それのやりすぎによって、聖職者にふさわしくない、ということで、イエズス会の活動は、禁止され、この活動が終わりとなる、ということらしい。
でも、多いときでも、たった、20人くらいですからね。
ただ、その布教活動は、真剣でピュアそのものだったのでしょう。本気で、信仰を広めることだけに、心血を注いだのでしょう。つまり、そういう生き方しか知らない、連中なわけです。勉強バカ、みたいなものです。
例えば、先ほども書きましたが、キリシタン弾圧が厳しくなる中で、さらなる軍事化を目指すわけですけど、その思想的裏付けは、以下なわけです。

トマス・アクィナスによって完成の域に達したスコラ戦争理論によると、戦争は可能なかぎり回避しなければならない。しかし、すべての戦争が悪として全面的に禁止されるのではなく、正義にもとづく「平和の回復」を目的としておこなわれる戦争はその遂行が許される。その条件の一つが「自衛戦争」であり、これは「現に加えられつつある暴力を強制によって撃退する」ものであり、しかもこれは「自然法にもどづいて認められている」のであり、それゆえに自衛戦争は「正当戦争」として許容される、とされた。

本人たちは、いたって真面目に、「正当」なのでしょう。
しかしその、信者獲得、信者救済の熱意は、相当なものがあったはずだし、多くの日本人がその熱意を信じたわけですね。しかし、その多くは、悲惨な最後を迎えるわけです。多くの信者が、教えを捨てることを拒否し、拷問の中、死んで行きました。
しかしね。
私には、どうもこれは、いつか来た道、のように感じられてなりませんね。つまり、こんな結果になることは、言わば、自明じゃないですかね。むやみに、なにも知らない百姓たちを信者にさせておいて、だからと言って、本気で、日本を「侵略」するわけでもない。そして、情勢が厳しくなると、自衛のための武装化くらいしか、思いつかない連中。本気で、受験バカ、みたいなもんなんじゃないですかね。
お前たちの信仰強要によって、多くの、なにも知らない百姓は、弾圧のうきめにあって死んで行った。
しかし、それをなんだと思うか。「喜ばしい」とくるわけですよ。
西尾さんが、ニーチェ、がどうのと言うたびに、皮肉な気持ちになるのは、こういうことですね。ニーチェは徹底して、キリスト教を批判したが、それは、戦中の、日本軍と、どこが違いますかね。
信仰に死ぬ人は、美しいですか。でも、それを信じさせた、だれかがいるわけですよね。ずいぶんと無責任な美しさなものですね。

イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)

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