吉田真樹『平田篤胤』

一言で言って、前半は、まあまあ、おもしろかったが、後半は、あまり、おもしろくなかった。
篤胤を、どのように捉えるか、というのは、重要であろう。特に、明治維新を考える場合には。

里子にやられ、貧乏御足軽の家にて苦々しく六歳まで養はれ、既におきつけにされるところ乳母の夫が死て家に帰されて父母兄弟に呵責せられたる苦み言語道断いつも語れる通り也。八歳の時より十一歳まで、桜井氏なる大金持の御はり医の所にもらはれて居たが、ふと医者坊になるがいやと思へるに合わせて、養家に実子が出来し故に帰され、其より家にて、飯たき掃除草むしり使小走り屎かつぎ、何もかも、兄弟中にいっちよく出来ると云いつつ、憎み使はれ、打たたかれ、頭にこぶのたゆることなく、夫でも生れ付実義の気味あり、よき教へも受ねど、独にて書物をよむことをおぼえ、人にあへばにこりとする所があるから、他人はかはひがるとて夫をにくまれ、あまつさへに、顔にあざのあるが、兄弟をころして家をうばふ相也とていやがられ、かかる寒国なるに只一年傷寒をわづらひしとき、大兄きがちひさな夜着をかつて呉れたが始にて、夫がきれてなくなつてからは、夜具を賜はりしこと実になく、手細工にて小銭をため、夫で奴の着てねるもくと云ものをかつて、極寒の冬をしのぎ。炬燵に一度も当られたるためしなく、さるにてもただ親をこわきもの、無理いふものと思つたなれど、恨みたる心はおこつたことはなき様也。されど兄をころす相だと云はるるがつらくて(伊藤裕『大壑平田篤胤傳』19〜20頁)

篤胤の幼少はかなり、サバイバルな、日常であったようである。当時において、次男以下は、「口べらし」という名目において、しょっちゅう、養子、に出されていた。この、慣習は、戦後も、かなりの間続く。日本社会を、この視点で、とらえることが、なによりも重要である。
それにしても、養子、という存在は、「異様」である。儒教を中心に置いた江戸時代から始まる、日本社会、において、養子、とはなんなのか。なぜ、養子、などという慣習が根付いていったのであろうか。
ちょっと前からこだわっている、維新政府の要人にしても、この、養子、という手段によって、やんごとなき、身分にまで、登りつめていくわけであるが、では、結局のところ、養子、とは何なのであろうか。
例えば、中国や韓国においては、たとえ、養子をとることがあったとしても、それは、血族、つまり、遺伝的にかなり自分たちに近い親戚から、迎えるであろう。だとするなら、この日本において続いてきた、養子の、異様さが、よく分かるであろう。
この東アジアで続いてきた、祖先崇拝、において、なぜ、養子として、自分は「他人」にされなければならないのか、そこには何があるのか。
こうやって見ると、篤胤が師事する、宣長は、凡庸な学者でしかない。彼は、別に、家を捨て、江戸でサバイブするために、丁稚奉公をやるわけでもない。最後まで、多くの親族にちやほやされながら、学問においては、儒仏を否定し国学を宣揚する素振りをしてみたところで、日常生活は、どっぷり、親族社会を無二のものとする、仏教徒でしょう。それを最後まで否定する素振りもない。
他方、篤胤の関心は、完全に、宣長とずれている。宣長にとって、学問とは、文献学としての、「証明」作業であり、古代の神々も、その延長で、反措定されるものに、限定されていたが、篤胤においては、その問題「こそ」、前景化してくる。人間は死んだらどうなるのか。なぜ、自分はこの世に生まれたのか。学問とは、篤胤にとって、そういった自分の生の実存に答えを与えてくれるものでなくてはならなかった。
篤胤は、宣長が、ちょっと口をすべらせた、学問を超えた説明に最後までこだわる。例えば、篤胤にとって、霊魂、こそ、すべてとなる。人間の本質、事物の本質が、霊魂、であることは自明となり、人間の死後も、霊魂、という形で存在し続けることは、あらゆる問題の前提となる。
篤胤の関心は、ただただ、その、霊魂、の存在論、となる。
例えば、こんな問題もある。

篤胤は神の実在性を力説していた。天照大御神でいえば、太陽がその実物である。そしてその御霊が伊勢神宮に祀られるとされていた。この場合、篤胤の考える神の本体は太陽であるはずである。そして、伊勢神宮に祀られるのが、御霊であるというとき、それは肉体から離れたものとしてあるはずである。

さて、どっちに、霊魂、はあるんですかね。
いずれにしろ、篤胤にとって、なによりもまず求められたのが、こういった、自分の生を肯定化できる、コスモロジー、なのであって、それ以外のことは、どうでもよかったのであろう。
そこにおいては、仏教を否定しながら、非常に仏教に近い世界観が語られ、キリスト教にさえ、接近する。彼を、最後まで、とらえていたものが、養子としての自分、家を捨てる存在としての自分なら、その自分が「何者」であるのか、その答え、さえ与えてくえるなら、なんでもいいのだ。
しかし、その、篤胤学は、まさに時代の思想運動として、明治維新の中核の一つとなる。

第三に篤胤は同時代の神道界の二大勢力であった白川家と吉田家を指導する立場となり、篤胤の思想が神道界に大きな影響を及ぼすことになった(文化5年白川家より、文政6年吉田家より、古学教授委嘱)。特に、儀礼面が刷新されたことが神道史的な文脈では大変革であったといえる。

篤胤没後の平田派が水戸学とともに、明治維新の下からの原動力となったことは周知の通りである。維新後、銕胤・延胤父子を始めとする平田派は政府、大学校、神祇官に位置を占めた。

近代になって、平田派の主導した廃仏毀釈を経ることによって、また復興後の仏教が、篤胤の蒔いた種であった近代仏教学に染まることによって、もはや業という問題の存在自体が現在の私たちには捉えがたいものとなってしまった。

さて、どうだろう。篤胤学は、その後、衰退の一途ではないんですかね。いや、むしろ、国学が、もう、篤胤の関心とは違ってしまったのであろう。もう、文部省を中心とした、国民教育、に重点が移っていく。
篤胤のこだわった問題はどこに行ったんですかね。

平田篤胤――霊魂のゆくえ (再発見 日本の哲学)

平田篤胤――霊魂のゆくえ (再発見 日本の哲学)