川村湊『妓生』

著者が、妓生について、関心をもつようになった、きっかけについて、まず、始めに書いている。

玩月洞 = ミドリマチとは、どんな街だったのか。私は1982年から86年までの4年間、釜山市内の私立大学で日本語の教師をしていたのだが、時々、そのあたりを散策した。今は暗渠となってしまったが、両岸に柳の植わった掘割の川が、山手から海の方面に向かって流れていて、少し坂となったその道に沿いながら、玩月洞 = ミドリマチへ通じる路地裏の通りを歩いた。釜山は山と海に挟まれた細い海岸線沿いに発達した街で、繁華な通りも海のすぐ近くにあるのだ。

だが、誤解を避けるために、急いでいっておけば、この緑町遊廓にいたのは、いわゆる「妓生」と呼ばれる朝鮮人の芸妓・娼妓ではなく、基本的には日本人の娼妓だった。もっぱら、在住や旅行客の日本人を相手としていた日本人の遊廓と、朝鮮人の妓生たちの「券番(検番)」があり、後者は朝鮮人の「券番」に所属していて、そこから割烹や料理屋に呼び出され、客たちの接待を行った。それはもちろん、性的接待(売買春)を伴っていた。しかし、日本風の遊廓という制度が、あからさまな売買春を標榜していたのに対し、妓生たちは歌唱や舞踊、パンソリやカヤグム演奏という技芸を売り物としていた。娼妓ではなく、芸妓として宴席に侍り、盛り立てる役割を建前としていたのである。

妓生については、つい最近まで、韓国の人も、こういうもの、歴史があったことを、よく知らなかった、と言う。そのことが重要であろう。
しかし、むしろ、妓生というのは、日本植民地政策、との延長で考えなければいけない、ということなのだろう。そういったことを無視して(つまり、自らの、当事者性を無視して)、その美的側面をうんぬんすることは、小谷野さんの言う、「江戸幻想」のようなもので、うさんくさい話だということなのでしょう。
それにしても、こういった、国営売春機関、をどのように考えればいいのだろう。国家が、「公務員」として、売春を行うということ。
その問題はともかくとしても、なぜ、ことこの、朝鮮王朝において、こういったものが続いてきたのか。儒教の国として、自らを厳しく戒めてきた国民ではないのか。
いや、著者も書いているように、歴代の朝鮮王朝の国王たちも、そんなことは、よく知っていたわけだ。

賢帝の誉れ高い世宗(セジョン)の時にも、廃妓の問題は出ていたが、ほとんどの臣下がそれに賛成したのに、一人だけが反対した。それは、もし妓生を置かないとしたら、すなわち奉使の人間たちが人妻を奪取したりして、あたら英俊・豪傑の士をして、罪過に陥れる虞れがあるだろう。そのために不可とする、と言った。世宗はその意見をもっともとして、妓を廃止せず、奉使の人に妓を以て楽となす、こととしたのである。

しかし、この論理はなんなんですかね。裏返せば、人妻陵辱は「しょうがない」と言っているのと、同じではないか。こういった問題が比較的目立たないようにするため、妓生という「架空の美」に、外の関心を集中させて、「一般人」への被害を少なくしよう、という話なわけでしょう。
常に、朝鮮王朝は、中国に対して、朝貢国家を称してきた。中国からの使者の対応は、国家の死活問題だったと言いたいのであろう。
ですから、こういうものこそ、「共同体主義」なのだろう(ですから、まるで、他人事ではない、ということです。今の社畜、会社文化の、接待として、キャバクラが全盛なのも、同じような話なわけだ)。
共同体の利益を、提供するなら、たった一人の「個人」など、それがなんだと言うのか。国体護持のためなら、国民を虫ケラのように殺すことを「許す」。だって、国家が生き残らなかったら、みんな、高句麗にとっての、百済、のように「奴隷」になるか、アウシュビッツのように、「民族浄化」されるのだ。だったら、「個人」など、「いくらでも」、虫ケラのように、ひねりつぶして「よい」のだ。
こんなことが認められるのなら、魔女狩り、だろうが、なんだろうが認められることになるのだろう(だから、中世に、魔女狩りが存在した)。
国民が王の子なら、まさに、どこかの部族のように、処女剥奪権、は国王のもの、というのだってなる、ということだろう。
しかし、だからこそ、朝貢的関係の国家など、ありえないと言いたいわけではない。いわゆる、「普通の国家」論、に便乗したいわけではない。
ようするに、たてまえ、なのだ。妓生、が存続してきたことは、これを撲滅するための運動が弱く、それなりに、そこに意味を見出そうとしてきた、人々がいたからにすぎない。こういう、売春をやれることを生きる喜びとした、下衆な貴族たち、そういう連中から金品をむしりとる、芸をもつ売春婦たち。
性の問題は、最後は、個人主義、しかありえない。これがそうと、なかなか、考えられない理由は、この社会が、そう簡単に、個人主義的であることを、許さないからであろう。
社会に対する、私のイメージは、映画「ドッグヴィル」、と言ってもいい。主人公の、ニコール・キッドマン、がレイプされるとき、ある意味、彼女はレイプされる当人に以前に予言されているわけですね。ですから、性が、非常に、暴力に近いところにあるから、これだけ多くの実存的なリアリティを与えるのでしょう。
ただ、これだけは言えるのは、たんなる肉体による、接待を、「文化」的行為として宣揚すること、曖昧にしていることなのでしょう。たんに、体なら、そう分類すればいいわけです。なにか、きれいな、精神的な行為であるかのように、糊塗するから、嘘くさくなる、ということなのでしょう。

妓生(キーセン)―「もの言う花」の文化誌

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