瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』

この本は、以前紹介した、明治六年政変、の後日譚、のような本である。
明治六年政変、の派閥闘争に勝った、犬飼、や、伊藤ら、のアイデアは、ドイツ流の、憲法制定、であった。
伊藤、などの、岩倉使節団、のメンバーは、各国の民主政治の混乱を見る中で、最後の訪問地、ドイツでの、学者たちによる、さかんな、民主主義批判、に感動する。
しかし、このことは、当然でもある。もともと、明治維新は、市民による、下からの、「革命」ではない。いわば、外圧によって強いられた、エリート革命、である。彼らは、別に、この国の国体の変革など、これっぽっちも望んでいなかった。
しかし、不平等条約の解消などを目指すにおいて、なんとかして、万民公法、の言う、一等国、の仲間に入れてもらわなければならない、そう考えたにすぎない。
つまり、憲法、とは、外国から認められるための、手段、にすぎなかった。
この頃は、ちょうど、フランス革命から、100年、がたっていたが、世界の政治を見ても、それ、「民主主義」、はどう考えても、「うまくいっている」とは、かっこう悪くて言えない、しろもの、であったであろう。ブーランジスムや、ずっと後の、ドレフュス事件にしても、民主主義など、なにかの喜劇でしかない。そして、それは、そのあとの、戦中、戦後、そして、現代に至るまで、まったく変わっていない。あいかわらずの、この、大衆迎合ポピュリズム、のどこが、この日本国の、伝統ある高貴な国の政治なのであろう、と思う事態が、ずっと続くわけです。
こんな、みっともない、なさけないものを作るために、維新の志士は、全人生をかけて、政敵を滅ぼしてきたのか。それは、やはり、虚しさを覚えるものであったのだろう。

山県は毎年教徒無隣庵の別宅に滞留したが、その都度幕末維新の志士たちを祀った霊山に登り、墓前に参拝したという。この習慣は高齢になってもつづけられ、ある時山県の身体を心配した側近の者が、自分たちが代拝するから、麓から遥拝するにとどめてはどうですかと申し出ても、「いや、足腰の立つ中は自身参拝せねば気が済まぬ」といって、「彼の高き山坂を五歩登っては休み、十歩進んでは休んで、遂に例の通り参拝を了はられた」という。

一方、伊藤は、ドイツの学者シュタインの情熱的な薫陶を受ける間に、憲法制定に、自信を深める。
言わば、日本においては、江藤新平などの施策によって、伊藤たちが岩倉使節団として、海外にいる間に、近代国家としての形は、できあがっていた。
あとは、なにか。
もちろん、「政治」である。
どのような、政策決定のプロセスを形成するか。どうやって、そこに、「正当性」を与えるか。つまり、国会、の形成こそ、最後に残された問題であった。どのように、政策決定プロセスを、正当化する法を整備するか。
言ってみれば、今までさまざまな法体系の改革は、(そんなに簡単には動かせないだろうけど)法を変える手順さえ確立すれば、たいした問題とは思えない、ということなのだろう。大事なのは、その法の変革のプロセスなのである。気に入らなければ、いつでも、変えればいいのだ。
つまり、国会と政府の存在に正当性を与える「何か」こそ、重要と思えた、ということなのだろう。
しかし、このことは、人によっては、不思議に思うだろう。なぜ、憲法の前に、法律があるのか。
憲法を、数学における、公理のようなものと考えること。しかし、数学においてだって、公理など、さまざまな定理がそろったところで、そういったものがうまく「成立」するように選ばれたもの、にすぎない。
イギリスは、今においても、憲法というものをもたない。むしろ、本質的には、憲法は不要なのだろう。ではなぜ、存在するのか。憲法というものを、どのように考えるかは、ですから、ひとえに、歴史的な問題となる。
日本において、戦後、憲法改正は、一種のタブーのようになってきた。最近、保守側が、日本の軍備増強の手段として、憲法改正を目指し始めたが、じゃあ、どうでしょう。戦前、大日本憲法の、「天皇は神聖なり」を、改正、しようなど、だれが言えたでしょうね。つまり、憲法のその意味とは、多分に、その国の歴史に関係していることが分かる。そんなに簡単に、憲法や法律か変わるなら、逆に、その正当性をあやしくするものなのであろう。
伊藤の憲法ヴィジョンは、憲法の制定とともに、政府、国会、を再構成、することにあった。この再構成過程を完全に掌握できるなら、十分に、彼の考える支配の体系を実現できるだろう、そういった、成り上がり者的な、楽観的ヴィジョン、を感じざるをえない。
実際にはそれは、天皇の回りを固める、「枢密院」、という元老による政治、であった。つまり、国会に、ワンクッション置くことで、最後のところでは、コントロールできる、と。
しかし、どうでしょうか。私は、こういった、シヴィリアン・パワーの曖昧化は、長期的には、行政・立法組織の弱体化、軍部の独走を招く、一つの礎にしか思えないわけです(そのことはまた、あとで、書きましょう)。
私は、伊藤に、この国の政治への深い考察を感じられない。しょせん、こいつは、下等な身分から、さまざまな権力闘争を経て、頂点まで登りつめた、下剋上男にすぎない。最終的に、自分が政治を支配できるなら、それ以外のことは、たいしたことではなかったのだ。
彼は、あるとき、ドイツの有識者に、こんな体験を吐露する。

ところで、アレクサンダーが残した日記によれば、この頃、伊藤はアレクサンダーに「身の毛のよだつ」告白をした。その部分をアレクサンダーの日記から訳出しておこう。

若き侍だった頃、伊藤は「は」で始まる名の高級官僚であり、学者であった人物(その子息は今も外務省にいるという)への襲撃と殺害に関与したという。この者は大君の政府の委託を受けて、天皇廃位について調べていた。そのことについて浪人たちが知るところとなり、伊藤はその者のもとへ遣わされた。その容貌を目にして、後日彼と分かるように、である。(中略)一団は彼を九段坂で待ち伏せすることに決し、彼がやって来たとき、彼とその使いの者に襲いかかって斬り倒した。

まっとうな武士なら、こういうことは、死ぬまで、冥土の土産にして、誰にも話さないであろう。「テロリスト」伊藤博文という、成り上がり者の、なんでもペラペラ話す、この能天気さに、この程度の男の作った、憲法のうすっぺらさを、感じずにはいられない。
権力とは、あらゆる意味で、そうなのだ。
どうすれば、軍隊の暴走を防げるか。どうすれば、衆愚政治をまぬがれるか。つまり、彼には、こういう、いい所、長所がある、ではすまないのだ。一点の隙も許されない。もしそのどこかに、弱点があるなら、その傷口は、長い時間をかけて、広がり、気付いたときには、とりかえしのつかないことになっている。そういった緊張感を、伊藤からは感じられない。
私は、日本の唯一にして最大の弱点は、軍隊という「官僚組織」への無知だと思う。江戸時代を通じて、日本には、軍隊というものは「無かった」。いわば、軍人こそが、公務員、だったのだ。日常的な行政サービスを行っていたのが、軍人であり、彼ら軍人は、いざとなれば、スーツを脱いで、軍服になる。
そもそもの、暴力行為のみを、専門とする、軍隊、という官僚組織(テクノクラート)、専門家集団が、この日本の権力構造の一角、パワーポリティクスの一角を占めていることに、気付いたとき、もう、だれも、それをどのようにコントロールすればいいか、分からなかった。その時になって、始めて、政治の無力に気付く。
シヴィリアン・コントロールを理解しないこの日本は、表向き、民主国家の体裁をみせる、国会、の猿芝居がありながら、その裏の姿は、なんのことはない、軍部による、専制独裁、でしかなかった。政治など、存在していなかった。教育、からなにから、軍部の意向に沿うもの以外、なにもできなくなる。天皇は、国民を従わせる、指令の発信者として、大変便利な道具として、使われていく。
しかし、そんな軍部が幅を利かせるのも、ひとえに、「戦争中」だから、なのだ。軍部は、彼らの、支配の継続を正当化させるためにも、絶対に、戦争を終わらせてはいけなかった。彼らの権益を維持し拡大させるためにこそ、人殺しが合理的に求められ、中国ソ連へ戦線を拡大し、しまいに、アメリカと勝目のない消耗戦を延々と始めることになる。
こういう意味でも、まさに、20世紀は、官僚の世紀、だったと言っていいのだろう。
じゃあ、その軍はだれの意志によって動いていたのか。なんのことはない。いわゆる、省益、陸軍内部、海軍内部の、省益しか考えていない。
だから、これが、官僚なんですね。
現代の、東アジア各国を見るとき、この、帝国日本軍の残滓を思わされずには、いられない。ミャンマー軍事独裁クーデター政権は、どう見ても、戦中の帝国日本軍だし、それは、北朝鮮、にも言える。東アジアは、ちょっとしたことで、同じ轍を踏むのではないか。どこもかしこも、軍事独裁クーデター政権、になっているのではないか。それが、実は、アジア、の本質なのではないか。

文明史のなかの明治憲法 (講談社選書メチエ)

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