尾関章『量子の新時代』

科学ジャーナリストの、佐藤文隆尾関章、の共著で、量子情報科学者の井元信之へのインタビューを収録。
私の科学に対するイメージは、トマス・クーンの、『コペルニクス革命』という本に、大きく影響されていると思う。
クーンは、この中で、どのように、天動説から、地動説に、学会の主流が移っていったのかを考察する。
そのときに大きな意味をもったものが、コペルニクスの、計算式であった。では、コペルニクスは、明確に、地動説の立場だったかというと、そういうわけではない。彼は、補注のおまけのようなものとして、こうやると、計算がよく合う、という理由で紹介したにすぎない。
確かに、この計算式を使うと、天体の測定に、かなりの精度で成功する。当然、この計算方法が、マジョリティとなってくわけだが、しかし、それを使ってる人たちも、そのことが天動説の否定になっているとは夢にも考えなかった。
つまり、だれ一人として、天動説から、地動説を、「選んだ」と思っている人はいなかったのだ。
この事態は、現代の、量子力学を思わせる。

はい。ほぼ100%、とてもすんなりと受け入れていました。何も疑問に思いませんでした。この理論は、半導体にしろ何にしろ、実際の対象をとてもうまく説明している。これ以上、理論と実際の合致に成功しているものはないと思いますね。

たしかに不可思議に思える現象はありました。でも、自分が信頼していた量子力学の計算でその現象を調べてみると、本当にそうなるのですから。

科学とは、何をしていることになるのか。
この質問の意味するところは深い。
カントは、これを「形式の投げ入れ」と呼んだ。
よく、「モデル」ということを言う。例えば、有名な原子モデルというのがある。中性子の回りを、電子が回っている、あれだ。しかし、原子があんなふうになっていると思っている人がいるなら、どうかしている。
そもそも、裸眼で見えないものの絵を描くことに、なんの意味があるのだろう。電子顕微鏡にしてみたところで、それは、なんんらかの「影(つまり、情報)」にすぎないのであって、それを、私たちの裸眼が知覚する、物体の世界と、同じようなものが「写っている」と思うことほど、こっけいなものはないであろう。
同じようなことは、マクロの視点についても言える。相対性理論は、この宇宙の有限さ、光の速度の有限性を議論した。私たちの視覚がとらえる、夜空の光は、はるか何万光年、つまり、はるか昔に、はるかかなたで、発生した「昔」の光がようやく、この地球に届いたにすぎない。そうであるなら、カントやデカルト数学の言う、無限に広がる、時間や空間、というイメージは、この宇宙のイメージとして、正しいのであろうか。
ことほど左様に、私たちが、思っている様々な、謬見は、なんらかの「モデル」に依拠している。しかし、そのモデルは疑わしい。たんに間違っているというレベルではない。そのモデルは「必要」なのか、から考えねばならない。
このことは、量子力学にこそ、最も、あてはまることは、間違いない。
物質とは、粒子でありながら同時に、波である、という二律背反を主張する、量子力学モデルとして、最近は、多世界解釈というのが、幅をきかすようになってきている。
つまり、コペンハーゲン解釈の、人間が「観測」すると、世界系が、確率的に決定するという、どこか人間中心主義的な曖昧さ、神秘主義を残した理論(しかし、実験の現場では驚くほど適合する)から、マクロからなにから、あらゆるこの世界が、量子論的なのだ、と。つまり、多世界が並行して存在していて(「波の重ね合わせによって」)選ばれるから、「確率」なんだ、という説明。
しかし、その風潮に対し、井元さんは、多世界解釈がどう考えても実験で証明される可能性など薄い(いや、まず、ありえない)ことを断りながら、ちょっと皮肉な言い方をする。

この解釈に立つと、たくさんの粒子でできたマクロな物質でも、その状態の重ね合わせが考えられる。そこでは、外村さんの実験のような干渉が起こらなくてはなりません。ところが粒子の数が増えれば増えるほど、干渉縞の間隔が小さくなってしまう。

現在の物理で扱える最小の長さである「プランクの長さ」(一・六センチメートルの一兆分の一の一兆分の一の一0億分の一)より短くなってしまったら、それでも縞は残っている----つまり量子論が維持されている----という根拠は、少なくとも今の科学の範囲では保証されません。

ええ。マクロなものは重たい(質量が大きい)ので、それを量子力学の波(ド・ブロイ波)としてとらえたときに波長は短くなる。たとえば、地球規模のものがふつうに動くと、その波長はプランク長さよりも小さくなるんです。こんなに短い波長の波については、まだ私たちが手にしていない量子重力理論なしに語ることはできません。

こうやって考えてくると、今、多世界解釈を、声高に主張している学者というのは、どこまで、本気なのか、と疑ってみたくもなる。いずれにしろ、いつも、あやしいのは、その、人間都合でもち出されてくる、「モデル」の方なのだ。
さて。
では、科学は、なにをしているのか。それが、一番上の、引用である。
なんだか分からないけど、ケーサン、...。合っちゃうんだよねー。
そんな、物理学者の、ノーテンキぶりを笑っていた、現代人。
しかしね。
どーもね。
もう、目の前、に来てるんだよね。
その、限界が。

エレクトロニクスは、素子の配線を「より細く、より高密に」する微細加工技術のおかげで、「ムーアの法則」と呼ばれる経験則に沿って右肩上がりの性能アップを続けてきた。ところが、その前途に壁が見えてきている。配線をあまり細くしすぎると、そのことによって量子力学の効果が裸のまま現れることになり、これまでのエレクトロニクスが通用しなくなるのだ。

すでに、さまざまなナノテクノロジーの場面で、量子力学に裏付けられたテクノロジーは、不可欠になってきている。
いずれ、本格的に、量子力学の理論を、前面に置いた、テクノロジーが、世界を席巻する日がくるのかもしれない。分からない。
しかし、そうだとしても、この人間の、この世界に「形式を投げ入れ」る行為(つまり、数学)が、終わることはない。
それがなにをしていることになるのか、なにを意味しているのか、をだれも、自覚することのないまま。

SF小説がリアルになる 量子の新時代 (朝日新書 187)

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