月本洋『日本人の脳に主語はいらない』

池田信夫さんの、ブログ、で、後続本『日本語は論理的である』の紹介をしているのをちらっと見かけて(中に何が書いてあるかは、読んでいない)、ちょっと気になって、掲題の本を読んでみた、ということです。
著者は、理解には、二種類ある、という。イメージ、と、記号操作、である。
記号操作とは、数式のようなもので、そのもののイメージはないが、それをどう操作するかをイメージできるということのようである。しかし、イメージはないのだから、短期的には、どうするか。「暗記」、である。しかし、それも時間がたつと、その記号操作そのもののイメージもできてくる。
では、イメージ、であるが、著者は、人が、なんらかのことを「理解」したと思うとき、なにかを「イメージ」している、という。つまり、イメージなしに理解はないのだ、と。そして、そのイメージは、空間的なものだけでなく、聴覚的、触覚的とさまざまあるとも言う。
さらに、著者は、言う。このイメージは、本質的に、身体運動、と関連して、もたれているものである、と。スキーの得意な人が、スキーをイメージすると、皮膚の筋肉の反応が、定期的になるのだ、という。
この事実を追っていくとき、語用論が問題になる。例えば、椅子というものは、何なのであろう。それは、人が、それによって、「なにか」をできるということで、始めて、これは椅子だ、と言える。つまり、まったくもって、人間の行動都合で、定義されている、ということなのだ。
しかし、これは、たまたまそう、ということではない。そもそも、言葉は、すべて、人間の行動、人間の運動に、適合するように、存在し、そういうイメージと切れないように、存在してきたわけだ。
もちろん、イメージは「あいまい」である。しかし、それは、ある意味で、他人がその相手のイメージを確定しようとするからであり、本人にとっては、なんらかの、一貫した、連続性があると考えるべきもの、ということなのだ。
では、そこから、言語として、全体をみるとき、どういったことが言えるか。それが、「比喩」である。
言葉とは、比喩、そのものだと言っていいであろう。「私の心は満たされた」「あなたの気持ちが僕には伝わってこない」。
逆なのである。
比喩でない、言葉(文章)なんて、ないのだ。
いろいろ述べてきたが、では、その「イメージ」とは、結局、なんなのだろう。
そこで、著者は、赤ちゃんに注目する。

模倣という言葉を使う場合には、ふつうは自己意識なるものが暗黙に仮定されている。しかし、生まれたての赤ちゃんには自己意識はないので、模倣という言葉を使うのは適切ではないかもしれない。正確には、大人には模倣と見えるということであろう。模倣をしているというよりは、同期的にもしくは反射的に体が動くというほうが適切であろう。

そのとき、見出されたのが、ミラーニューロンであった。

ミラーニューロンは、自分が身体のある部分を動かすときに動くが、他人がそれと同じ動作をするのを自分が見るときにも動く。

ミラーニューロンは、行為をするときに動くが、知覚するときにも動くのである。このように、知覚と行為は生得的に結びついている。

そして、以下が、イメージ、の定義と言っていいだろう。

われわれの身体運動は、赤ちゃんのころから、母親等の身体運動を何万回と模倣することを通して、脳神経回路的に組織される。その組織化された脳神経回路を仮想的に動かすことで、想像するのであり、イメージを作るのである。

著者は、以下の、感動的な(美しいですね)場面を紹介する。

普段からオモチャにはほとんど興味を示さなかったEちゃんが、いつしか同じオモチャを手にするようになりました。押して動かすと、柄の先にある小さなドーム状の空間の中で、中のボールがぽんぽん音と一緒に弾む仕掛けになっている手押しオモチャです。歩き始めの子どもが両手で押して楽しむ「カタカタ」の片手版といったものに似ています。それが大変気に入った様で、必ずそれを手に取る様になりました。最初は友達に取られても、表情をあまり変えなかったのですが、その内、同じものを欲しがる友達と取り合いをしてまで離さなくなりました。今まで友達にはあまり関心を示さなかったEちゃんが友達とはじめて取り合いをしたよ、と喜んだものです。ある日の事です。Eちゃんは、のオモチャを押しながら、いつものように満足げな顔で部屋を一回りした後、オモチャの先をカーテンに当て始めました。何度も何度も当てています。不思議な光景でした。それまでのEちゃんとは明らかに違う動きです。お母さんたちと離し合いを続けながら、私の目はEちゃんの動きに釘付けになりました。やっぱり気になって私は思わず「Eちゃん、一体何をしているのかしらね」と思わずつぶやくと、Eちゃんのお母さんは、あっ、と絶句し、笑いながら「私の真似かもしれない」と言うのです。訳を聞くと、Eちゃんのお母さんは掃除の時、よくカーテンに掃除機を当て、なぞりながら埃を吸い取るのだそうです。そう言われてみれば、確かにそのオモチャは形といい動きといい、掃除機のイメージにぴったりです。

私は、子供(どころか、自分の中にもあるはずの)その、「イメージ」の底知れぬ厖大さ奥深さに、めまいにも似たものを感じずにはいられない。
さて、本の後半は、言語論となる。著者は、「主語、人称代名詞、の省略は、母音の多い言語に多い」、という、命題を提示する。
つまり、日本語、と、英語、の比較が典型的なように、である。著者によれば、韓国語でも、日本語ほど、まで、省略はしないのだそうだ。さらに、古語英語において、今の英語ほど、母音が多く、主語、人称代名詞、の省略も、それなりにあった、という興味深いことも指摘する。
私は、最初、これは、なんのことを言っているのかと思った。
なぜかと言うと、これは、統計的な事実にすぎない。つまり、仮説であり、その相関関係が、なんらかの事実と対応するかは、別の話だからだ。しかし、ようするに、こういうことなのだ。著者は、昔、話題にもなった、例の、角田忠信『日本人の脳』の、右脳、左脳、の議論を継承するタイプの研究者だということだ。
つまり、著者の基本的な主張の意図は、そちらにある、ということだ。
では、最後に、簡単に、日本語の整理を、(多少、掲題の本の文脈を離れるかもしれないが)整理しておく。
日本語は、動詞が最後に来る、タイプの言語である(韓国語もそうですね)。これを、著者は、「主題 - 解説」と整理する。動詞と言っているものは、「解説」と考えるべき、というのだ。そしてこの、「解説」の前には、多くの、「補語」が、順不同で、くっつく。
日本語は、確かに、文脈によって、一見、主語や、関係代名詞が、省略されているように見える。そのかわり、多くの「余計」なものが、くっついている。いわゆる、「てにをは」など。こういった接尾辞が、そういったもののない言語における、主語や、関係代名詞、が付加されることによって、実現されていた、その文の「構造化」、を、主語や、関係代名詞、がなくても、意味たらしめる。「投げろ」の末尾「ろ」で、命令になっている、こういった感じだ。
そう考えてくると、日本語において、主語や、関係代名詞、とよばれているものは、本来の意味での、主語や、関係代名詞、でもないことが分かってくる。つまり、「補語」の一つにすぎない。
ようするに、日本語には、主語や、関係代名詞、なんて存在しないのだ。
なぜ、日本語では、こういった接尾辞が、大きく進化したのであろう。その辺りが、これほどの、母音の頻出と関係あるのかもしれない。母音は、数がわずかであり、人間の発音において、一つの、「切れ目」のような位置付けにあるのかもしれない。日本語のように、子音に必ず母音がくっつくというのは(実際は、そうでもないのも、あるのだが)、言ってみれば、煩瑣である。制限が強すぎるのだ(音として、つまらない、ということだ。しかし、これは、日常会話において、日本人は、ほかの言語の人からみて、あまり、「きれい」に発音しない傾向として現れる。日本人は、日本語を、クリアでない、ノイズ、のように話す傾向となる。くずすことで、深みを出していると言ってもいいのかもしれない)。
しかし、そうであるということは、逆に、言語の中の、「音」の構成要素、単位、が、分節化されやすい、特徴となる。他の言語において、大きく、接尾辞を導入すると、それが、接尾辞なのか、別の名詞の一部なのかの、分節の聞き分けが、難しくなるのであろう。逆に言うと、日本語では、無限の接尾辞のオンパレードである(のりP語からなにから、なんでもござれ)。
先ほど、日本語には、主語や、関係代名詞、なんて存在しない、と書いたが、このことは、よく言われるように、日本語が、究極的なまでに、「文脈依存」的な言語、であることを意味している。
発話者は、相手と、共有してきた、コンテクストを、「完全」に自明のものとして、発話する。つまり、ほぼ間違いなく、このコンテクストを理解できないなら、「なにを言っているのか分からない」となる、ということだ。なにせ、「主語や、関係代名詞」、が省略されるのだ。どうやって、「誰」について話しているかを、探せばいいのか。少し前に話した話題から、過去に相手と共有した事実から、フル総動員して、その示唆しようとしているサブジェクトを探しだす、ということになるわけだ。
もちろん、そういうコンテクストというのは、どの言語にもあるが、日本語、究極の「文脈依存」言語、なのである。文法の構造から、せめて、「あなた」なのか「彼」なのか「彼女」なのか、が、わかればと思っても、そんな情報は、字づらに残らないのだ。
究極の「文脈依存」言語。
これこそ、日本人の、他人への気づかいを大事にする、特性の起源なのだろう。とにかく、そういうわけなのだから、日本人は、だれもが、まわりで「話されている」ことに、耳をそばだてることになる。なぜなら、それが、自分の文脈につながるかもしれないからだ(急に、話しかけてくるかもしれない)。そうしたとき、会話が成立しうる唯一の可能性は、その「話されている」内容を、自分が理解し続けることしかない。まさに、山本七平の、空気のなんとか、だ。
世界において、今では、日本とは、「マンガ」の国、になってしまった。
このマンガというスタイルが、これほど、日本で定着した、というのも、おもしろい。
私は、この辺りから、伊藤仁斎の、哲学から始めて、日本人的な、周りとの関係を大切にする(せざるをえない?)特性が、生み出す、アクティブな倫理、から、その「マンガ」で描かれる、物語の源泉、にある倫理観、感情の起源、のような話を、ついつい、したくなるのだが、今回は、そんな、無粋なことはしない。
マンガという、偶像的な、人物像の(人の顔が典型ですが)、あの「野蛮な」簡略化は、ずっと賛否両論あるんじゃないだろうか。こんなの人間の顔じゃないだろう。それに、ああいう特徴は、子供っぽい、と言えなくもない(ベテランの漫画家は、だんだんと、「洗練」されてきますよね)。しかし、(多くの場合は、漫画家その人に似ているものですが)下手であろうがどうであろうが、その「勢いによって」商業的にずっと、読まれてきた。その、パワーなんですよね。だから、観点が違うんですね。問題は、その「顔」が何を伝えることに成功しているか、なのだから。最初から、ストーリーがあるのであって、それと、絵、コマ割り、が吹き出しの日本語の文章を、多くの日本人に「自然」に受け入れられてきた、ということなのだろう。
ようするに、それは、日本語の「補語」テンコモリ的なイメージと、マンガの絵のイメージ、の「強烈」な親和性なのだ(ここには、間違いなく、漢字文化も、関係するだろう)。
当分、このマグマは、世界を驚かし続けることになるのかもしれない(いや、やっぱり、それは違う。ストーリーがおもしろいから読まれるのであって、それは、あらゆる、テキスト・クリティークで同じなわけですから)。

日本人の脳に主語はいらない (講談社選書メチエ 410)

日本人の脳に主語はいらない (講談社選書メチエ 410)