中塚明『司馬遼太郎の歴史観』

ここのところの、天地人、には、のけぞってしまった。秀吉、朝鮮に、いつ行ったの? こうやって、歴史は、隠蔽されるんですね。
著者の啓蒙書は、今までも、紹介してきた。今回は、NHK が「坂の上の雲」のドラマ化を公言している関係から、司馬遼太郎を、総括しておく必要を感じられたのであろう。
今回の本は、言わば、彼の今までの、啓蒙書の総括と言っていい内容であるが、この分野に通じていない人にも近づきやすいことをより考慮された内容になっている(引用の口語化など、いろいろ配慮が感じられる)。
結局、こうやって、私もこだわってきたのだが、中塚さんの、本当に言いたいこととは、なんなのか、なんですね。
それは、結局、明治維新からの日本の歴史の総括になるわけです。
そのとき、今でも、最も、日本の世論の中で、大きな影響を与えていると思われる論客が、司馬遼太郎、であったと。であるなら、彼との対決こそ、目の前にある壁だった、と。

秋山好古秋山真之、そして正岡子規、三人の主人公をとおして明治を書くというのが『坂の上の雲』の主題だということは、私も承知しています。

しかし、このことは、過去の歴史の話ではないんですね。終戦直後、ほとんどの、日本国民が、この軍隊と、なんらかの関係にありました。日本人の誰も、他人事としては、聞けないのです。今も血の通った人たちが、「当事者」として、この問題に、多くの名誉を賭けて、生きているわけです。その、多くの論点を、一方の側に、是是非非を倒す行為は、大きな諍いを巻き起さずにはいない。司馬遼太郎にしても、彼の総括に納得しない人こそ、むしろ、多いわけです(なんてったって、昭和初期の全否定ですからね)。でもその、司馬遼太郎だって、バランスの上に書かざるをえない。昭和初期が全否定なら、明治から大正の全肯定を行わざるをえなかった。
中塚さんの論点は、その二分法のうさんくささに集約される。昭和初期の萌芽は、すでに、明治、大正、にあるはずだ。
そして、その議論の中心として、彼が、表舞台の中心にもってきたのが、朝鮮、なんです。
問題は、一読者として、これを、どう理解したらいいのだろう、という、この一点に尽きているわけです。

1883(明治十六)年、日本ではじめて人物像のはいった紙幣が発行されました。その人物が「神功皇后」だったことはきわめて象徴的なことです。「神功皇后」といえば、神のお告げで朝鮮を攻め、新羅を降伏させ、百済高句麗服従させたといういわゆる「三韓征伐」の立役者、英雄的な女性として神話上に出てくる人物です。
日常使う紙幣に、こういう図柄を最初に採用したのは、天皇の政府が、朝鮮をどうみていたか、これからどうしようとしていたか、それを象徴的に物語るものです。大昔から日本は朝鮮を支配していたかのように、政府の政策によってそうした意識を日本人が日常的に持ち続けるようにしむけたのが、この人物像第一号の紙幣登場の意味だと私は考えています。

問題は、この重要な事実を、ほぼ「全て」の日本人が、こんなことを「思いもしないで」、生きてきたことなのです。戦後でも、伊藤博文新渡戸稲造など、朝鮮侵略を正当化する人物(どころか、当事者)を、お札に使い続けました。
以下では、私の、中間総括のようなものとして、体系的ではないですし、すべては無理ですけど、かなりの論点は、含めた、まとめるものとなっていると思っています。
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まず、明治政府とは、なんだったのか、ですが、この特徴を描く前に、日本の当時の思想的バックボーンとして、最も系統的な形で提示した、会沢正志斎の新論、を考察しておくことは重要です。
この新論を書くに、会沢正志斎の理論的課題として直面していたものこそ、なにより、当時のロシア、イギリス、フランス、アメリカが、日本近海で、さかんに活動を始めていたことだったわけです。大国が、日本の近海を窺うその姿は、大変刺激的だったということです。そして、彼らと江戸幕府が結んだ、不平等条約だったわけです。新論は、この課題に直面する日本に指針を示すために書かれたと言っていいでしょう。
まず、その新論が、どういう系統の上に生まれているのかを、確認しておくことは、重要です。彼ら水戸学派は、大日本史、という日本の歴史書編纂を、徳川幕府の初期から、関わってきた藩でした。新論もこの成果の一つの派生物と言えるでしょう。この歴史書編纂という作業は、当然ですが、「朱子学」が生み出したものです。
中国の長い歴史において、表の政治を思想的に支えてきたものが、儒教でした。儒教は礼の体系というのが表向きの姿ですが、これは、むしろ、「正当性」に関わる理論と理解されてきたわけです。論語の最後の(あきらかに、孔子が言うはずのない、後世、とって付けられた)章は、正当性、正統性、とは何かを、「正名論」として、表明します。朱子学も当然、この伝統の上に、体系化されている。
つまり、大日本史、という歴史書は、そういう、透徹した、思想の上に、作られていることを理解しなければなりません。
さて、不思議なのは、その第一期は、新井白石の頃でしたでしょうか、この大日本史編纂事業は、一回、終了していることです。それの特徴は、なんといっても、南北朝で終わっていることです。ということは、なにを意味しているか。日本の歴史は、南北朝で、北朝の勝利で終わったことで、「終わった」ことを意味しています。そこで、日本は無くなった、と考えた、ということです。
つまり、革命、です。
それだけ、それ以降と、それまでを「つなげる」ことは、彼らの認識においては、無理な話に思えた、ということなのでしょう。
いずれにしろ、重要なのは、第二期においても、その連続性において、「日本」を考えていることです。なににおいても、「なぜこういった権力が認められいるのか」を、過去からの連続性から考えること、過去から続く、なにがしかが、この国を「こうあらしめている」と考える。それは、歴史書において、「証明」されることだったわけです。
もちろん、その議論の流れにおいて、天皇こそ、この日本の過去から続く政治支配の正当性の源泉と位置付けられた。
日本書紀の構造は、天皇の命令を受け、大和朝廷の周縁に位置する、さまざまな、夷狄を、コンキュアーし、天皇のしもべとし、その天皇の支配する領土を拡大することです。このイメージが、何度も何度も繰り返し語られるわけです。つまり、これは「日本人の使命」とはなんなのかを、明確に規定していることを意味しています。
自分が、日本人「である」とアイデンティファイすることは、つまり、お前が何を使命として「生まれてきたのか」を提示することでもあります。
しかし、この空想には、ある点を、意図的に見逃していると言えないでしょうか。それは、もちろん、神話そのもの、にあります。伊邪那岐伊邪那美、が作ったのは、この世界ではない。日本神話に書かれているのは、この日本という島国が、どうできたか、でしかなかった。つまり、その日本の支配を、朝鮮半島まで、延長することには、ある認識の「超越」を思わせるわけです。
しかし、もちろん、日本書紀が、中国や朝鮮半島を、いやというほど、意識した中で、書かれたことは間違いない。
上記の引用の、神功皇后の話が、そうですし、そもそも、白村江の戦いは、彼らとの戦争そのものですからね。
しかしね。
神功皇后が朝鮮を支配したという記述。ほとんど、一行コメント、でしょう(しかも、神功皇后。女性ですよ。アマテラスもそうですけど)。
こんな歴史書あってたまるか。それだけ、彼の地、中国や朝鮮は、当時の人たちから今に至っても、想像すらできない世界だったのです。
ただ、大事なことは、上記にあるように、天皇にしても、その大日本史が描く、正名論の言う「正統性」の中の一つを構成する要素でしかないことです。明治の要人にとって、その「形」が重要なだけで、天皇という人間個人がどういうことを考えているかなど、「どうでもよかった」。それどころか、気に入らなかったら、「別のに」頭をすげかえるのは「当然」な話だったわけです。なぜなら、大事だったことは、たんに、天皇という「体系」が維持され、それなりに、この日本社会で機能しているなら、それだけで、「正統性」の問題としては、なにほどもゆるがないからです。
このことは、以前書きました、ネパール王政の廃止、を思い出させます。
正名論の弱点は、一言、「そのことにしか興味がない」、ことです。
もし、正名論をみたすなら、あらゆる現象は「たいしたことではない」、と考えるなら、それは、太平洋戦争となるでしょう。しかし、こんな道理、いつまで、まかり通りますでしょうか(実際、太平洋戦争は終わりました)。
大事なことは、たとえ、天皇家が、骨肉で血みどろの、権力闘争を行って、もし、一方が他方をこれ以上ない形で残虐で人道上最も非道な殺し方を行って「完全に殲滅」したとしても、正名論には、「なんの傷にもならない」ことです(ディペンドラ王太子にとっての、弟ギャネンドラ、がそうでしたね)。
しかし、どう思われますか(もないでしょう)。こんな事態を、国民が許しておくわけないじゃないですか。その時こそ、国民が自らの手によって、天皇制という国家制度を終焉させる日、となるわけです(ですから、孟子は、ずっと正しいのです)。
さて、長州藩の思想的バックボーンであった、吉田松蔭がこの新論を読んでいたことは有名ですし、彼の最も有名な命題が、台湾、朝鮮半島、の侵略と、そして、そこを「橋頭堡」としての、日本帝国の拡大、であったことは、ほとんど、この新論から、導き出される、自明な方向性に思われます。
しかし、たとえそうだったとしても、上記にも書きましたように、それを、日本書紀の思想から、語り始めることには、かなりの、「飛躍」はいなめない、と思うわけです。日本書紀は、日本の国土の成立ちの話だったはずですから。
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では、明治「革命」政権とは、なんだったのであろう。
つまり、薩長とは、なんだったのか、だが。
薩長の日本征服は、言わば、日本書紀にある、夷狄撲滅の、「再現」と言えなくもないでしょう。彼らは、自分たちの所業を、そういったイメージで考えていたかもしれません。
薩長の「天下取り」が、暴力革命そのものであったことは、自明であろう。
すでに、薩摩は、琉球の「侵略」に成功していた。
江戸城の処遇がたとえ、無血なものだったとしても、その後の、会津藩の仕打ちなど、血を求めて止まない、ものであったことは有名な話である。
そんな彼らが、「どうして」、ひとたび、戦争に勝利した後、平和主義、になるなど考えられよう。そこにはある、倒錯があります。侵略で、自らのアイデンティティを維持してきた存在は、それを除いては、自分たちそのものを「なにものであるとも」考えられえないわけです。
私は、長州の、天皇主義を、うさんくさく思うわけです。だって、変な話ですよね。幕府側が、フランスの支援を受けていたなら、彼ら、戦争した、イギリス、から、金銭面から、なにから、大量の援助を受けていたわけですから。当時の、天皇が、さかんに、攘夷を唱えていたはずなのに、その天皇の意志など、どうでもいいわけです。そして、その後の、明治天皇が、一人、前の天皇のその遺思を、まるで「忘れたかのように」、シカトして、明治政府、でしょう。
さて、重要なことは、彼らにとって、その出発の薩摩や長州を除いた他の地域とは、たんなる侵略「できうる」領域を意味していたにすぎない。薩摩、長州を中心として、同心円に、「侵略」を広げていくなら、その侵略の「完成」した日本の先にあるものが、まず、台湾であり、なにより、朝鮮半島、であることは自明であろう。
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ここまでの議論を読んでも、どうも、ぴんとこない方は多いでしょう。
そうなんです。ここまでの話は、全然、「自分たちに関係ない」のです。
つまり、明治政府とは、たんに、江戸幕府から、頭をすげ変えたものでなかったわけです。
ここが、歴史の皮肉と言えるでしょう。
明治政府は、西洋列強との、不平等条約をなんとしても、改善するために、あらゆる手段を尽した政府と言っていいでしょう。それどころか、唯一この一点をどうにかするために、一時的に「江戸幕府」の看板を降ろした、と言えなくもない。
この、手段を選ばなかった、ということの、ものすごさを、理解しなければなりません。多くの学者や政府要人が、欧米に赴き、知識を身に付けて戻り、西洋システムを、この日本に導入していきました。学校制度、軍隊制度、議会政治制度。
このことの、めまいのするような、「過激さ」を理解しなければなりません。あっという間に、さまざまな、身分制からなにからが、無くなり、多くの「民法」によって、市民は「権利を守られる」存在に一変してしまったのです(このことは、江藤新平を通して、さまざまに書かせてもらいました)。
私たちが、ある、認識的倒錯に陥っていると言ったのは、このことです。私たちは「こちら側」にいるのです。どうしても「あちら側」をイメージすることは、難しいわけです。
明治政府の最初の立ち上げを構成していたのは、実に、「数人」です。
それまでは、この国とは、「その数人が支配する国」だったのです。
それが、(私の言い方を使わせてもらえるなら、たった一人、江藤新平、によって)「国民全員のものの国」に変えられた、ということなのです。もちろん、その後、伊藤によって、憲法上は「天皇一人が支配する国」と変えられたように思われますが、しかし、そういう認識は、「治安維持法」以降の話です。なぜなら、「磐石な」民法は、そのままなのですから。
しかし、です。この、国民国家成立の過程、別に、日本に特別の事態ではありません(多少、早い方だった、くらいのものです)。まるで、クーンの言う、パラダイム、のように、世界の支配体系は、まるで、プロトコルのように、この形態に「すべて」統一されていきます(カントの、永遠平和の理念を思わせますね)。
つまり、この過程、国民国家が成立する前から後にかけて、必ず、ある「神話」が作られている、ということなのです。
それが、「連続性」ということなのです。
たとえば、江戸時代までは、将軍がそもそも「誰」なのか、誰が「天下」をとっているかなど、庶民、百姓には、なんの関係もありませんでした。彼らとは、自分たちが、天災などにより、不作に苦しんでいるときまで、厳しい年貢のとりたてを行ってくるときにあらわれる、「一揆」の目標でしか、ありませんでした。
彼らは「国民」ではなかったのです。
そういった彼らが、「国民」となっていく過程こそ、上記にある、国民国家化、であると言えるわけですが、その過程で、ある認識の齟齬、が発生します。
つまり、国民国家が、幾つかのステップを踏んで、より完成に近づくものであるとすると、その過程の間において、まるで、すでに、国民国家が「完成」していたかのような、幻想が起こります。そして、逆に言えば、そういう幻想は必要とされすらするのです。
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日本の議会制度の最初は、なんのことはない、元老院による、元老政治、であったことは、だれだって知っているわけです。民選議員による政治が、どれほど重要だと、江藤新平らが主張しようと、その、江藤新平、の方が、伊藤や大久保によって、「笑止」の一言によって、パージされる。
しかし、元老たちは、じゃあ、大手を振るって、悪徳の限りをやれたか、というと、そういうわけでもない。国際社会の視点もあり、朝鮮王宮占領は、「完全」に国民に伏せられた形で、闇の中で、処理される。
だって、そうであろう。朝鮮王宮の占領など、「国民は誰も」決定していないのだ。決定したのは、元老を中心とした、官僚組織であったが、もっと言えば、薩長の政策を、この「国民国家成立の過程で」具現化させたにすぎない。
しかし、国民は、薩長エリートでは「ない」のだ。
日本は、この後も、非常に重要な場面で、「国民国家にあるまじき」一部の過去の遺物によって、政治の梶を切らされ続ける。そして、「徹底して」国民にその事実を「知らせない」。
朝鮮王宮占領の事実の解明は、中塚さんの決定的な仕事であった(以前、書きました)。
そして、なによりも重要なものというのが、「東学農民軍の蜂起」、なのです。
といっても、ほとんどの日本人。なんのことかと、ぴんとこないでしょう。
この事実を、日本の教科書がどう説明してきたか。「東学党の乱」。
すごいですね。教科書。
最初から、反乱軍、とはね。
アテルイ、を思い出させますね。
これこそ、日本に対する、朝鮮人の、「国家奪還」のための決起を、「徹底的に」「骨の髄まで」たたき潰した、至上、数えられるほどの、「人民弾圧の典型」であった。
しかし、どうであろう。今だに、日本人は、この歴史的事実を、いったい、何人の人が、「そういうもの」と認識しているであろう。
このとき、日本は、たんなる、「人民を徹底して弾圧する」存在でしかなかったし、民族自決を、徹底的に、抑圧する、植民地支配弾圧者、でしかなかったわけだ(このことについては、以前、書きました。読んでみて下さい)。
そして、閔妃暗殺(これも、以前、書きましたね)。
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ここで重要なのは、国家による、事実の、隠蔽、歪曲、でしょう。このことは、司馬遼太郎も、日露戦争に関して言っています。
しかし、彼が、この政府の特徴を、日露戦争以降、に限定したことは、ほとんど、狂気の沙汰に近い、であろう。
日本の歴史こそ、中国にも劣らない、陰謀と、歴史の改竄の歴史であったはずではないか。明治維新ほど、うさんくさい時代はない。いったい、だれが、どこで、暗躍して、なにが起きていたのか。その、もやもや、の過程から、生まれてきた、明治政府が、徹底した、忍者、刺客、の暗躍、事実の隠蔽が、絶えず、起きていたことは、なによりも自明なことではないのか。
明治政府による、日本国民への、マインド・コントロール。これが、どれだけ、徹底したものであったか。こうやって、世界の歴史、世界史、をつぶさに見てきた、われわれが、どうして、そのことに、無自覚になれるというのか。
日清戦争こそ、当然、完全に、国民に、事実を隠された、まったくの、「お笑い」物語、だったこと。

すでにできあがった草案を読んでみた。この草案は、遠慮なく事実の真相をありのまま書いてあり、将来の戦争で軍隊を動かす際の研究資料として役立て、また一方で軍事の素養がなく東洋の地理などに通じていない人たちに、戦争の経過を知らせるのを重点としている。
右の趣旨にもとづいて、戦争の原因をのべるにあたって、大本営参謀本部など軍部では早くから軍事力で事を解決しようとし、一方、内閣はことさらに受け身の立場に立ち、というのは戦争になる原因は外国になって、日本はやむをえず戦争に立ち上がらなければならないようにさせられていると見せ、つとめて軍事力に訴えるということを表に出さないようにつとめる。
だから常に軍が先んじて軍事力を使って有利な立場を築こうとするのを抑え、日清戦争の開戦の当初には、日本の陸軍の行動にこのうえなく大きな不利をこうむらせたと、いちいち例をあげて書いている。
あるいはまた「漢城を囲み韓廷を威嚇せし顛末」(朝鮮王宮占領のこと)を、永遠に記念すべき不朽の痛快事であるかのように詳しく書き、またわが軍が牙山に清国軍がいないのに、まだいるかのようにあやまって慎重に攻めていったことを書き、暗に軍隊の動かし方が乱雑であったかのように叙述し(中略)ひそかに出征した上級指揮官の無謀を遠回しに言う、そういう類のことがたくさん書かれている。
もちろんこういうことを書いておくことは、多少はこれから後のいましめ、教訓になるかもしれないが、しかし、内閣も大本営も共にひとしく天皇のお考えをつつしんでうけたまわる組織であり、外交上の折衝に天皇が満足せずはじめて武力に訴えることになるのだから、開戦前に軍や政府の内部に異なった意見があることなどを書いては、世間の人は、政府・軍部の統一して指揮している元首である天皇の大権(大日本帝国憲法のもとで天皇が行使する統帥権)に疑問をもつことになる。ことに宣戦の詔勅と矛盾すると人びとが思う恐れがある。(中略)
改めて編纂する戦史では、わが日本政府は常に平和をねがって一貫していたが、清国朝廷はわが国の利権を考慮せず、たとえ武力を行使し血を長してでもその野望を実現しようとし、彼、清国がまず日本に対して敵対行為を現し、日本がついにこれに応じなければならなくなったことが発端となって戦争になったというように書き、成果を見なかった行動はつとめてこれおを省略し......(後略)

このことを、どう考えればいいんですかね。
もし、このことが「しょうがない」と言うなら、その人は、学問を科学と考えない、学問を政治に利用している、政府の御用学者、にすぎないことを意味するであろう(つまり、たんなる、ナショナリストにすぎない、ということ)。
だから、歴史、なんですね。
つまり、人文科学を語りながら、歴史学者を自認しない、こういった連中は、うさんくさい。いかに、民主主義が重要であるか、民主主義による、政権交代による、前の政権のチェックが重要であるか。
いずれにしろ、歴史の事実、真実、は、もし、はるか未来においてさえ、その真相の解明を難しくするような、(敗戦直後、徹底して、証拠隠滅を行った)日本の学校のような、こういった、連中を、人類の敵、鬼畜、の行為、と言うのであろう。真実をはるか未来に残そうとする存在、これこそが、真の人類、の定義なのかもしれない(人類の列に並ぶことは、このように簡単なのだが、どうも、日本は、この列に並びたくないようだ)。
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よく言われるのが、「ロシアの脅威」、である。
しかし、こういうことを言っている連中は、同じ口ぶりで、「中国の脅威」「朝鮮の脅威」「イギリスの脅威」「フランスの脅威」と、とどまるところを知らない。
つまり、どっちにしろ、こういう連中は、日本が、この地球上の、あらゆる、大地を、天皇の領土、日本の土地、とするまでは、安心して眠ることなどありえないのだ。
つまり、最初から、ロシアがどうのこうの、など、なんの関心もない。あるのは、この広い世界の大地を、我が物にした後、そこをどのように、「私物」として使おうか、という空想でしかなく、実際、陸軍がやったことは、それ、そのものでしかなかったわけです。
では、問題のロシアがどう考えていたか、ですが、以下になります。

佐々木さんの清国・ロシア・イギリス各国の資料にもとづく詳細な研究の結果明らかにされたことは、巨文島事件後のロシアの対朝鮮政策は、日本で普通考えられているように、ロシアが朝鮮を侵略し、それを支配下に置こうというようなものではなかったということです。ロシアには、朝鮮が清国または日本の手中におちいるとすれば、ロシアのウスリー州に重大な脅威となりうるとの認識はあったにしても、大局的には、朝鮮は経済的には貧しく、軍事的には長い海岸線のゆえに防衛困難であり、外交的には朝鮮侵略はイギリス・清との決裂をもたら、それ故に「朝鮮獲得はロシアに何の利益も約束せぬばかりか、必ずや非常に不利な結果を招来しよう」(1888年5月、ペテルブルグで皆済されたロシア政府の極東問題特別会議が作成した覚書)----という認識が、ロシアの朝鮮政策の基礎にあったということです。

いいかげん、冷静になってみませんかね。
トーゼンデショ。
なんで、あのロシアが、さまざまに、社会主義革命などの、国内事情も大変だし、西のドイツがきな臭い動きをずっとしているのに、わざわざ、こんな、「朝鮮半島の私物化」に、そこまで、プライオリティを置かなければいけない、と考えるの。
それこそ、日本様の、お事情、そのものじゃないですか。勝手に、自分の都合を、「他国だって、そうなはずだ」って、恥かしくないですかね。
そりゃ、日本も「公式」には同じような主張をしていたんでしょうね。だから、相手も本音のところでは、同じ「野望」につき動かされているはずだ、って、あんた、うぶなおぼこ? これくらい、ロシア人スパイを雇うなり、もうちょっと、ちゃんとしてもらえません?
日本が、台湾、朝鮮、から、満州。そして、中国本土、モンゴル、東南アジア諸国、へと、食指を動かしていって、そうしたら、完全に、隣は、「ロシア」って、そりゃー、当然な話でしょう。
だから、いい加減、自分をごまかすな、って話なわけです。「侵略」したいんでしょ。そして、侵略をしていく過程で、脅威って、トーゼンじゃないですか。
結局、自分の「モノ」が増えれば、だれだって、「おいしー」なんでしょ。それは、日露戦争後の、マスコミ、国民の、「くれくれ」と、どこが変わりますか。
しかし、です。
問題は、今までの歴史において、こういうことが、成功した事実など「ない」ことなんです。

第二。日本が朝鮮を自分のものとし、そこを足場にしてロシアを防ごうというものがある。しかしこれは「戦の道」(戦争の仕方)を知らないもののいうことだ。日本が朝鮮を攻略することはできるかもしれない。しかしたとえそうできたところで、朝鮮の人心がわずかの時日でどうして日本になびき従うことになるだろうか。そんなことはありえない。むしろ朝鮮を占領した日本は、まわりは全部敵という状態になる。それなのにさらにまた他の強敵を防ごうとしても、そんなことはできることではない。

そんなこと、できるわけないじゃないですか。
だって、そこに「生きている」んですよ、人間、が。
彼らにだって、意志、があるんです。そんなことも、お分かりになりませんか。こんなこと、通用するはずもないことを。
ようするに、自分が自分で何をやっているのかを、分かっていないんですね。
国際条約を日本は守る。捕虜の、非人道的扱いはしない。
しかし、それって、国際条約を守る「なら」、当たり前のことでしょう。
なんでそれで、「いばる」の? 朝鮮人を、日本人と同等に扱うのは、「当たり前」でしょう。
しかし、です。もし、そうするなら、本当に、植民地主義は、「成功」するんでしょうか。彼らに、朝鮮語を学校で教えることを許さず、彼らの自治を許さず。
過去の中国の歴史にしても、侵略した相手を、非人道的に扱うこと、彼らに、反撃の意志を無くさせること。それによって、なんとか、その秩序を維持できたにすぎない。ナチスは、ユダヤ民族の、この地球上からの消滅を目指しました。スターリンの粛清は、まったく、有無を言わせぬものでした。
でも、日本は、国際条約を守るんでしょ? 楽観的すぎるんじゃないとしたら、あまりに、「他者」、というものを知らなすぎる。
今さら、言うことでもないですけど、こういった国際条約を認めながら、ありうる関係とは、唯一、「経済」、なんでしょうね。なぜなら、経済なら、ウィンウィンの関係が、ありえますからね。こういった基本的な認識は、おそらく、戦中においても、一部の、賢者、には自明だったはずです(そもそも、上記の引用だけでなく、ロシアもイギリスも基本、中国との関係は、そうだったわけですね)。ですから、勇気さえあれば、帝国日本陸軍の、大陸からの「撤退」だって、合理的に、ありえたわけです。
まあ、ですね。
しかしです、ね。
この辺りから、日本人も、気付いてくるわけです。
どーも、おかしい、って。
自分たちは、何をしようとしてきたのか、って。
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結局、日本がこのような道を歩ま「ざるをえなかった」理由の一つは、周辺諸国と、外交的関係をまともに、築きえなかった、明治政府、そのものの、「正統性」にあったのではないでしょうか。
日本は、朝鮮王朝に、まともに、相手にされなかった。それは、朝鮮が、中国に対して、朝貢国として、一歩譲った姿勢をずっと維持してきたのに対し、日本が中国と対等(ある意味それ以上)の存在として、天皇を、「明治になって突然」もってきたから、ですね。
こんなことを、急に言い始めようと、まともに相手にするはずがないであろう。
同じような事情は、中国に対しても言える。中国と、まともに、外交関係を築きたかったなら、どうして、琉球王朝を滅ぼすのであろう。日本にとって、過去から、大きなパイプ役であった、琉球を滅ぼしておいて、一体、どうやって、中国と、まともな外交関係が築けようか。
こういった問題は、もしも、幕府側が、この争いに勝ち、混乱を治め、開国とともに、さらに、中国、朝鮮と、外交関係を、改めて築こうとしていたなら、もしかしたら、可能だったのかもしれない。
歴史の正統性は、国内だけに閉じるわけがない。外国との関係を含めて、その「連続性」をおいて、考えられないわけにはいかないということですね。
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日本には、今でも、多くの「侵略主義者」が存在します。
日本の国土は狭い。
「日本人」が今後生き残っていくには、その領土の拡張なしにはありえない。そう考えると、地政学上、台湾、朝鮮とは、その「橋頭堡」にしか思えず、そして、その先にある、「中国」、なんですね。そして、ロシア、モンゴル、東南アジア諸国が、スコープに入ってくる。
領土が少ない限り、人口には限界がある。そうであるなら、最終的に、多くの他の民族へ、最後には吸収されてしまうのではないか。例えば、日本の非常に近くに、多くの漢民族が、存在し、彼らの人口の厖大さは、最終的な歴史の終局において、日本人の併呑に向かうのであろう。日本の領土が、今のままである限り、歴史の未来において、日本人の消滅は、歴史法則、そのものではないか。こうなるわけです。
この議論の興味深い点は、まさに、これこそ、「コロニアニズム」だということなんですね。その、延長の思考だということなんですね。
世界の植民地は、戦後、ほとんど、解放され、独立、しました。民族自決は、当然、なんです。それが、国際法、だったのですから。
日本は小さい、と、のたまう、御仁は、差別主義者です。なぜなら、世界には、多くの、日本より小さい、民族があります、その一つが、琉球、そして、朝鮮、だったわけです。その朝鮮を、この世界から、消滅させようとしていたことを、「まったくたいしたことでない」と考えることは、日本以上の大国が、日本、をそのように考えることを、どうして非難できるでしょうか。
これこそ、ポスト・コロニアリズム(なのかどうかは、知りませんが)。
アメリカは、多民族国家と言われます。多くの出自の民族の人が、アメリカには存在して、暮している。オバマの主張は、その、アメリカの「連帯」であった。そのとき、例えば、白人優越主義者たちが、アメリカが黒人がマジョリティを得ることになったとき、白人のパージが起こるのではないか、そう恐れた、歴史が、思い出されます。そして、それは、多くの民族も同じような恐怖や疑惑を思って生きてきたわけです。しかし、現在、アメリカは多くの矛盾を抱えながら、その多民族が「共存」し「融合」を始めている。多くの、二世、三世。彼らにとって、人は人なのである。魅力的な人に、民族もなにも関係ない。好きになる人間の「人間性」が問われているわけですね。
私たちは、ハイブリッド、であることを、恐れてはいけないのです。なぜなら、それこそ、人間の本質だから、です。
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今でも、「幼稚」な学者が、ナイーヴに、「日本のアジア主義、アジア解放の理念は完全に正しかった」というようなことを言います。しかし、そのアジア主義は、むしろ、戦争が進み、日本の戦線拡大路線が、いっそう進み、もはや、「アジアの人々」の協力なしには、自分たちの「帝国」を維持できないことが、自覚されてきてからだったわけです。その遠近法的倒錯を忘れて、アジア主義の起源は、明治初期のだれだれ、と言ってみたところで、むしろ、そのことで何かを隠蔽していると疑われても、しかたないでしょう。
こう考えてくると、世界は、日本の戦後の扱いは、まったく、「妥当」なものだったと言えないだろうか。世界は、非常に「公平」に日本を、ずっと、見ていた。そして、まったく、妥当な判断を下した。
そこから、なにを学ぶかは、日本、の問題でしかない。

司馬遼太郎の歴史観―その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う

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