平井和正『幻魔大戦』

西尾さんの「偽物語」も、下巻の、後半まで読んでいる。私は、この、化物語シリーズ、を読んでいて、子供の頃、よく読んでいた、一連の、SF、的なノベルズ、を思い出した。
ああいったものの、「意味」、とは、なんだったのであろう。
今、思い出すと不思議な感じになる。
そもそも、自分は、なぜ、こういうものを読まなくなったのか。どうも思い出せない。だからといって、今、読みたいとも思わ「ない」。
最近亡くなった、栗本薫、の、グイン・サーガ、は、大変な、長篇となったが、私は、2、30巻くらいから、「まったく」読まなくなった(彼女には、ラヴクラフトクトゥルー神話を題材にした「夢幻戦記」というのもあった(魔界水滸伝、ですね。嘘ばっかりです))。グイン・サーガ、は、ヒロイック・ファンタジー、というカテゴリーにはいるものであり、コナンシリーズや、マイケル・ムアコック、の一連のもの、こういった流れを意識していたのだろう。
ほかにも、菊池秀行の、ヴァンパイアハンターD・シリーズ、や、夢枕獏、の、キマイラ・シリーズ、もそうですね(彼は、グレイシー柔術というのが知られるきっかけになった頃、大道塾、だったかの若者を追ってましたね)。これらも、ある時期から、読まなくなった。
こういうのは、言ってみれば、充分に、ハリウッドを意識している、ヴァイオレンスとエロスを中心とした、エンターテイメント、である。しかし、そこには、ハリウッドにあるような、明るさや、娯楽性、単純な楽天性、がない。基本的に、アンチ・ユートピア、でとても、正義が勝つ、などと言ってすませられるものではない。
この、日本的な、「暗い」物語、を特徴付ける、ものとはなんだと、定義すべきなのであろう。
つまり、この「長く」どこまでも続く連作というスタイルである。
たとえば、中国の史書編纂の歴史は、正史、と、列伝、に、明確に分かれている。正史、とは、何年の何月何日、になにが起きた、のかを、延々と記述していく形態となる。しかし、それでは、各人物の位置付け、が明確にならない。国家に貢献した、賢者と称すべき人なのか、どうか。そういうことを見るのは、列伝の方の役目、となる。もちろん、こういったものに満足できない立場からは、三国志演義、のようなものが存在する。しかし、三国志演義、は、明確に、蜀を中心に「えこひいき」して描くわけで、蜀の衰退とともに、物語は終焉する。
つまり、ストーリーが長く、延々と続く、というのは、一つの「矛盾」なのである。ある目的のために描くなら、その目的を果たしたところで、終了となることを避けられない(エンド)。
さて。いずれにしろ、私は、こういった一連の、連作ものの、日本のSF的なものの、元祖、と言っていいのが、平井和正、だったのではないかと、思っている。
彼は、最初、8マン、という、ある世代の人なら、だれもが知っている、ドラマの脚本をやりつつ、日本版スパイダーマン、の原案を書いたりしていた。ウルフガイ、というヒット作もある。その彼が、いわば、集大成として作ったのが、この、幻魔大戦、である。最初は、石森章太郎の漫画の原作であったものを、彼自身が、さまざまに、ふくらましていく。
その中でも、さまざまな意味で、集大成、進化の最終形態、と言っていいものこそ、掲題の、「角川版」幻魔大戦、だと、私は、思っている(内容は、あまりに昔に読んだため、もう覚えていないのだが、たまたま、何日か前に、古本屋で、

だけを買っていて、今、手元にある)。
なぜ、この作品が、そういった、進化の最終形態、のように思うか(そのことを以下で書いていくのだが、言ってみれば、この作品を読んだことで、どこか、こういったものを、自分は、「卒業」したのだろう)。
この作品が、まずもって、読む人に、ギョっ、とさせるのは、真正面から、日本の、「新宗教」、を描いていることだろう。
宗教、を、たんに、科学の反対、の別名ととらえることとは、ようするに、宗教とは、トンデモ、なんだ、と言うことに等しいだろう。
しかし、彼らの生態を、そういった意味で、たんなる「非合理」の領域に押し込めることは、真相をゆがめる。
彼らは、この日本において、税制的優遇を受ける、具体的な実体なのである。
宗教が、そもそも、どういったところに、そのモチベーションをかかえているか。それは、言わば、私たちの「他者」性に関係するところ、がある。つまり、容易には、理解を許さない面がある、ということである。

きっとお前にはそれが必要だったんだと俺は思う。苦労知らずでボサッと育った人間は、人生の真の値打がわからない。嬉しいこと楽しいことのレベルがうんと低くなる。歓喜なんてものがどれほど凄いかわからなくなってしまう。泪の河を渡ってきた人間だけが、全身全霊で大歓喜を味わうことができるんだと俺は思う。
だから、お前は劣等感なんか持つな。たとえ今生では無垢で、この世では罪穢れを知らない人間でも、過去では必ず身や心を汚してる。数限りない転生を繰り返す間、ずっと無垢でいられるはずがない。人間はだれだって同じなんだ。だれだって巡り合せが悪ければ、自分を汚して、地獄へ堕ちるような罪穢れを身につけてしまう。そうやって重ねてきた苦労を、どのように活かすかってことが一番大事なんじゃないか。砂漠をさまよい歩いている人間は一杯の水で天国を味わう。渇いている人間でなければ、一杯の水の恵みに心底からの感謝なんか湧いてくるはずがない。

だから、お前は何も恥じるな! 自分の子供を隠すな! 子供はお前の恥の証しじゃない! お前の子供は大きな使命を持って生れてきたかもしれない。なあ、祝福されずにこの世に生れてくる人間なんて、一人だって存在しないんだぞ! 神は人間一人一人に使命をあずけ祝福して送り出される! だから、正式の結婚じゃなくて生れた子でも恥じるん。俺はそれを保証する!

全ての子供は天命を帯びてこの世に誕生する、先生はそういっておられる。そうした子供をきちんと大人は育てていく義務があるんだ。母親の辛さや悲しさをわかってやれる子供に育てなければならん! どんな境遇にいようとそいつを克服して、他人の気持がわかる人間になれ、と教えてやらなきゃならないんだ。お前の子供はそれを学ぶために生れてきたんだと俺は思う。だから、お前は何も心配するな。若いころの失敗で、子供に父親を与えてやれなかったとくやむことなんかない。この世で巡り逢う人間たちは、それこそ肉親以上に親しい魂の友人ばかりだってことを、俺が教えてやる!

どうです。平田篤胤、を思い出しませんかね(日本に、養子、という形態が滅ぶことがないことを自覚するとき、どうして、その「意味」について、考えずにいられようか。平田篤胤、を通して、以前、書きましたね)。
いかに、日常会話において、「普通」という、マイノリティ、を傷付ける、言葉の刃に満ちているであろう。
「フツー」という、優越感。
最近、芸能界は、ある、女性アイドルの、ドラッグ使用、の話題ばかりである。もっと悪質な、最近ぽっと出の、若い俳優の方は、どう考えても、悪質で犯罪すれすれ、であるのに、まったくかすんでいる。それだけ、女性大物アイドル、というのは、一時代を築いた、大きな存在だったのだろう。芸能人というのは、自分のプライバシーを商品としているという意味で、独得の存在と言えるであろう。はっきり言って、ドラッグをやったなんていうのは、それ自体なら、勝手に自分の体に覚えさせた、というものでしかなく、他人に迷惑をかけるものでもない、たいした話ではない。しかし、その彼女の過去が、週刊誌で、おもしろおかしくバクロされ、多くの、やじうま、は、その過激さに、「ひきぎみ」というの正直なところなのだろう。
フツー、な人間たちの、フツーという共感ゲーム。こういうものに、自覚的であろうとすることが、いかに難しく、高いハードルであるか。そういうことなのだろう。
さて、この作品と、たとえば、化物語、を比べると、一瞬で分かる差異がある。前者においては、「語り手」は、神のような、あらゆる登場人物の、心理、を読みうる、存在であるが、後者は、徹底して、主人公、である、ということである。ここには、後者の著者の基本的スタイルが、ミステリ、にあることが大きいだろう。
ミステリにおける、謎、とは、「誰」の視点で見ているかに、大きく依存する。そう考えると、このような主人公の視点を決して離れない、スタイルは必然である。
逆に言うと、前者が、実に、普通のことのように、第三者目線、神、を導入していることは、作品の、物語への安易さを現している、と言えるだろう。通俗的な、大衆文学、の、限界を露見していると言えなくもない。
この差異は、前回こだわった、「強い」女性の描き方、に、決定的な差異を生み出す。後者において、羽川翼、を「強い」と言ったのは、主人公であったが、我々は、その彼の視線から、そのことを主人公と同じように、追体験する。
ところが後者においては、確かに、何人かの、東丈、の秘書たちの神がかった、美しさと、強さが、その多くの信者によって語られもするし、実際、語り部(つまり、神)は、そう決めつけもする。
しかし、である。
読者は、たんにそれだけでない、ことを読み、実感する。それは、その、語り手、の視点によって、彼女たちの、弱い面、卑屈な性格の部分、をこれでもか、と描いていくからである。
著者が、幻魔と読んでいるものとは、その、人間の弱さ、と言ってもいい。その弱さは、人畜無害なものばかりではない。カントの言う、非社交的社交性、こそ、著者が、初期の作品から、何度も何度も描いてきたものだ。

劣等感の強い女性には充分に留意しなければならなかった。圭子はその配慮を忘れたのである。この悪声だが美貌の女性には、心の深部に腫瘍のようなむごたらしい悲しみが潜んでいて、絶えず彼女の精神状態を刺激する劣等感になっているのだった。
それは固いしこりであり、少からず無気味であった。圭子のような若い娘には正視に堪えない波動を放っていた。気味の悪い放射性物質のようであった。
自分でも驚くほど意識が鋭敏になっている圭子には、それが己れ自身に転移してくるようにさえ感じた。恐ろしい波動であり、気分が悪くなってきた。その精神感応による転移は、相手の美晴がむごたらしい記憶に意識を向けていることにより強まっているようであった。
数名の恐ろしい男たちのイメージが、圭子の心をよぎった。変質的で凶暴な波動が、その男たちのイメージからやってきた。全身が氷結し、異様な悪寒と吐気をもたらす波動であった。
男たちの妖鬼じみた変質的な容貌が視えたようだった。嗜虐の衝動にとり憑かれた人間独得の無気味な化物めいた面貌であった。
嘔吐感がぐっと黄水を伴ってこみあげ、圭子は身慄いしながら胸許を抑えた。男たちがまるで圭子自身の下肢を拡げ、ある種のむごたらしい悪戯を加えているような感覚の虜になったのだ。
それは白水美晴の過去からやってくる波動であり、圭子は精神感応によって美晴の無残な過去を追体験したのだった。

エゴイスティックな、自己、とどのように向き合い、どのように克服していくか、この問題を徹底して描いたのが、掲題の作品と言ってもいいのかもしれない。
しかし、結論としては、著者の、その視線は、冷酷、である。大衆としての、人間にとって、この問題は、どこまでも絶望的なのだ。

東丈は超能力者を養成するために、この箱根セミナーを開催したのでない。それは初日の主宰挨拶で丈がはっきりと告げたことである。丈の真意は人々の霊性(それはもっとも人格的、倫理的なものだ)を高めることにあって、超能力の顕現など二の次というよりも、ほとんど無視されている。それは付随的なものであり、それらが目的化するなど、丈にとってはありえないことなのだ。
しかし、セミナー参加者たちにとっては、ごく自然に価値の転倒が行なわれてしまい、超能力の開発だけに意識が集中している有様である。彼らの超能力への傾斜はあまりにも強すぎるので、いかなる説得も効果がないのではないか、と圭子が常々感じているところであった。

こういったセミナーを開き、人々を伝道しようと思っても、こんなところに集まってくる人間は、しょせん、自分が超能力者になり、「エリート」になる夢、その欲望にしか興味がないのだ。もともと、メッセージとは、そういうもので、その本来の意図を理解し実践していく、賢者とは、絶望的なまでに、数えるくらいしか、現れえない。それが、著者の認識、なんですね。
偽物語、が描いた、羽川翼、と、例えば、井沢郁江、や、杉村由紀、と比べるなどというのは、ギャグマンガの世界に、シリアスマンガ、のキャラを導入するようなもので、異様、どころか、トンデモ、の部類でしょうが、ちょっとそんな、野望をもってみたくなるような、偽物語、の読後感、だったということなんですかね。
私が、掲題の作品を、進化の最終形態、と言ったのには、もう一つ理由があります。それは、著者によって、「突然」、この作品は、打ち切られ、続きを「放棄」されている、ということです。
このことは、著者が、こういったものの、本質をよくわかっていることを意味しているように思うわけです。
なんらかの「意味」があると思っている「から」、書くわけです。その使命が終わったと感じられるなら、どうして、その続きなど、必要でしょうか。著者は、よく分かっていた、と思うわけです(そのことに、読者など、なんの関係もないのです)。
いずれにしろ、掲題の作品は、決定的に、読者を二つに分けるだろう。くだらない、ゴミ、と考えるか、なんらかの、価値を見るか。
しかし、そういうものなんじゃないですかね。だから、エンターテイメント、なんですし、エンターテイメント以外ありえないわけです。私たちだって、そうなんです。ある時期、意味を感じたからといって、それを、いつまでもひきづる必要もない。勝手に卒業すればいいし、逆もそうでしょう。

決定版 幻魔大戦〈1〉幻魔宇宙・超戦士 (集英社文庫)

決定版 幻魔大戦〈1〉幻魔宇宙・超戦士 (集英社文庫)