冷泉彰彦「学園反抗ドラマはクールか?」

村上龍の、JMM、という ML、の、連載記事の一つ。
冷泉さんというと、最近、新書、を出版していましたね。アメリカ在住の方で、さまざまに、向こうでの、「日本」をリポートされている。いつも、この執筆の、濃密さは、関心させられる(そうはいっても、たまに、目を通すくらいなんですけど)。
そんな中でも、掲題の記事は、興味深かった。
アメリカの若者においても、アジア各地と同じように、日本のマンガが「完全」に定着している。
しかし、その中でも、「絶大な」人気を博しているのが、「GTO」(藤沢とおる)、だと言うのだ。なぜか。

まず一つの理由は、アメリカには学園ものの映画やTVはありますが、こうした善玉と学校当局が激しく対立するというカタルシスを感じさせるものは少ないのです。

??? なんのことを言っているのか?

ところが、アメリカの高校生には「反抗の大義」がないのです。学校がある意味で「隙がない」ために、「学校が悪で、自分は善」というスタンスに立つことが難しいのです。

アメリカ、という、国を、戦後の私たちは、自明の前提、として、育ってきた。テレビをつければ、三種の神器、が、あたりまえのように、身の回りに置いて、暮している、アメリカ人のホームドラマの光景があった。そして、それに、日本の戦後は、追い付き追い越せでやってきたわけだ。
常に、我々の目には、アメリカ、という、学ぶための、ロール・モデルが常に、存在してきた。
しかし、どうなのだろう。本当に、日本人は、アメリカという国を、かの国に生きている人々を理解していたのだろうか。
彼らが、どんなことに、悩み、どんなことに、日々、その壁にぶつかり、乗り越えていたのか。
正しすぎるアメリカ。
そのアメリカに、さらに、正し「すぎる」、大統領、オバマ、が誕生した。
正しすぎる、アメリカ、の学校。
子供たちは、その中で、本当の意味で、真の「正しさ」を、主体的に実践できているのだろうか。子供たちは、本来の姿の、「解放」を体感できているのだろうか。
正しすぎる、とは何か。
そもそも、正しい、などというものが、アプリオリ、にありうるのだろうか。もともと、これは、倫理的な概念であり、あくまで、対関係によって決まるものだったんじゃないのか。「最初から」正しい、この学校、とは、一体、なんなのか。
しかし、これは、日本の民主党、の未来と言えるのかもしれない。
民主党は、さまざまに、正しすぎる政策を、これでもかと国民に、たたっきつけてくるであろう。
地球温暖化危機ファシスト、エコ・ファシスト、の政策が国内の、貧困層への決定的な打撃になったとしても、彼らの「正しさ」は、ひるむことはないだろう。経済活動の徹底的な縮小は、BRICsなどに、経済の中心が移っていくことだったとしても、それは、今まで、貧しかった国の人々にお金が行き渡る事態だと言うのだから、忍従しろ、と(しかし、そういう、えらそーなことを言ってるやつに限って、大学の教授だとか、どっかの、研究所の研究員だとか、いっぱしの、小金、をもらって、将来安定の、コームイン、みたいな連中というわけだ)。しかし、そこで、「最初に」首を切られるのが、まず、底辺の労働者であることを理解しなければならないだろう。しかし、こんなことは、彼らには関係ない。たとえどんなことになろうと、彼らの「正しさ」はひるまない。世界中の国民が、あらゆる経済活動を放棄でもしないと、彼らのエコ・ファシズムを満足させない、とくるわけだ。むしろ、彼らにとって、人類は「多すぎる」というのが結論なのだから、いい感じに人口が削られていくのは、(たとえ、そうやって率先して、滅んでいくのが、まず、貧しい人々だったとしても)理想に近づくとかなんとか、嬉々として、望むところなのだろう。
私は、めんどっくせーから、大学に入りたいやつは、みんな、うけいれろ、と思う。しかし、正しーやつらは、めどくっせーことを言うわけだ。そんなに教室に生徒が入るわけねーだろ。ゼミがそんな大勢でまわるわけねーだろ。
だから、なんだってーんだ。めんどくっせーなー。いいから、やれっていってっだろ。
うぜーってんだ。
これからも、先鋭的な、国家エリートたちは、衆愚たちを、「これが正しいんだ」と教導していくだろう。
お前たちは、なんにも考えなくていーんだぞ。なにが正しいかなんて、俺たちみたいなエリートが、もう決定してるんだからな。お前たちは、それを、ありがたく、ご拝聴しておけば、それに盲従していれば、「幸福」な未来を約束されるんだからな。
そして、多くの大衆は、その息苦しさに、戸惑う。この苦しさの、出所すら、理解することのないまま。

正しすぎる大人に押しつぶされそうになるアメリカの若者にとっては、腐敗した大人に立ち向かってゆく日本の若者による反抗のドラマは、ファンタジーの世界ではありながら、強く感情移入が出来るのものなのです。

こんなふうに、向こうの、若者たちが思ってくれていたなんて。ちょっと、驚き、ですね。
さて。歴史の終りを議論したのは、フランシス・フクヤマ、でした。歴史の終わった、アメリカ。その、アメリカ、では、あらゆることは「解決」したのでしょうか。あらゆる真理は、「決定」したのでしょうか。
そんなはずはないだろう。あいかわらず、弁証法、は歴史を徹底的に通底し続ける。あいかわらず、未来を引き裂く、事件が「事故的」に起き、人々は、自分自身の倫理を試される。
お前の言う、うすっぺらい、正しさ、など、この場で、ひきちぎってやるぜ。

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