萩野弘之『自省録』

今もそうだが、日本の明治維新の頃から、西欧の中心は、イギリス、また、フランス、であった。産業革命に成功し、世界の植民地は、この二国によって、ほどんど、二分されていた。しかし、日本の、岩倉使節団、は、憂鬱、であった。圧倒的な国力、その、自由、平等、の理念を前に、今まで、自分たちが行ってきた、江戸幕府政治とのあまりにもの違いを前にして、神経衰弱となる(当然であろう)。しかし、そんな彼らに、かすかな自信を与えてくれたのが、ドイツの、ビスマルク政治であった。ドイツは、多くの封建勢力によって、近代化に苦労し、あがきながら、進んできた国である。そのドイツの「遅れ」は、彼らに、共感できる地平、連続性を与えたと言っていいだろう。いずれにしろ、そこから、日本の政治の主流は、イギリス、フランスから、ドイツ、へと移る(日本で、カントや、ニーチェが、流行したのは、そういった関係があると言える)。ではその、ドイツは、どんな歴史観をもってきた国家であったか。
ナチス・ドイツは、自分たちを、アーリア人、と呼んだわけであるが、その文化的な連続性は、ギリシア・ローマ、から、ドイツの、ヘーゲルなどの観念論哲学、ワーグナーなどの文化を、連続に考えたわけだ(ナチスがオリンピックの成功にどれだけ心血を注いだか、は有名な話である。そして、それは、最近行われた、世界陸上での、ドイツの大衆レベルでの、あの特異なまでの熱狂ぶりにも感じられたのではないか)。しかし、おかしなことに、世界中を見てみると、こういった傾向はない。カントやヘーゲルは、ほとんど、知られていないと言ってもいいような、影響しかない(どこもかしこも、せいぜい、プラグマティズムである)。それは、この、日本の、第二次世界大戦を一緒に戦った国同志の、ある歴史的特殊性から、来ている、と言ってもいい。
(もちろん、戦後、多くのドイツ思想が、フランスを中心とした現代思想に導入されていったのは、結局のところ、フランスにしても、多くの場面で、ドイツに共犯的であったわけで、その「いいわけ」的な役割として、ドイツ哲学の評価が進んだとことは、周知の通りである)。
例えば、ドイツ以外の地域にとって、西欧文明と言ったときの、ギリシア・ローマは、ドイツのそれに比べ、やはり、相対化された距離を感じる(北欧神話だってあるわけですし)。しかし、こと、ドイツにとって、そのアイデンティティの源泉とされ、他に替えることを許さない、ギリシア・ローマの価値の無謬さ、はどこか悲壮感さえ感じさせられる。そして、そんなドイツから文化的に特殊な洗礼を受けてきた日本にとって、やはり、ギリシア・ローマは、この世界を解釈する上で、重要な対象となってきた、というのはいまさら、言うまでもないのだろう。
まだるっこしい言い方はやめて、はっきり言おう。
日本の文化は、
ギリシア・ローマ文化 --> ドイツ(観念論)文化 --> 日本の明治以降
こういう構造として、理解された、ということなのだ。
つまり、これは、ドイツや、西欧の話をしているようで、違うのである。いつまでも、日本の問題なのである。
しかし、こういった事情を、多くの日本のエリートたちは、恥かしいことのように、ふるまってきた。アメリカン・スクールの日本の子供は、自分がかつて、アメリカに刃を向けた、今でいうタリバンのような「悪魔」であったことに、どうしても、卑屈にならずにいられない。そして、どうしても、こういった日本の特性を、野蛮で不潔な過去として、ひとしなみに(心の底で)否定しがちな傾向があるものだ(日本人が、中国人や韓国人に比べ、アメリカにおいて、どうも、おとなしいのには、その辺りに原因があるようだ)。
しかし、そういう単純な「汚れ」「ケガレ」の感情は、事実を直視することを妨げる。ドイツのギリシア・ローマ、理解は、確かに、プラトン、スパルタ的な、国家共同体的な民族観のものが圧倒的であった。しかし、その側面だけで、ギリシア・ローマ、を語れる「わけがない」じゃないか。
ギリシア・ローマ、をなめるな。
さて、やっと、掲題の本の、話に入っていく。
マルクス・アウレリウスの、『自省録』、については、神谷美恵子、による、岩波文庫の名翻訳があり、多くの人が知っているであろう。
この本が、どういう意味で重要なのか、と考えれば、マルクス・アウレリウス、という、当時のローマ帝国の「帝王」によって書かれた、という、「哲人政治」の、ほぼ唯一と言ってもいいような、例、であるということなんでしょう。
それにしても、この、「自省録」(まあ、忘備録、のようなものですが)、これは、「異様」、である。言ってみれば、ここには、帝王「個人」のことしか書いていないからだ。
お分かりであろうか。
マルクス・アウレリウス、は皇帝なのである。ローマ帝国全土のことを、毎日、悩み「決断」し続けた、全人生。そんな彼が大事に常に手元に置いて、メモしていたものには、「一切」そんな政治の、よもやま話、は書いていない。延々と、終わることなく、続く、個としての人生の、生き方、心の持ち方、それだけであった。
このような、帝王学、が、じゃあ、アジアにおける、「仁政」、において、ありえただろうか。
もちろん、そういった難問に答えをだそうとできるのは、せいぜい、大学の厖大な資料を自由にできる、文献学者、くらいなのだろうが、少なくとも、はっきりしている、事実、がここにはある。

法務官だった父と三歳で死別して後は、当時の慣例によって祖父の養子となり、六歳という異例の若さで騎士階級に叙される。名前をもじって「ウェリッシムス」(正直者の意味、まことちゃん)と呼んで可愛がったハドリアヌス帝がひそかに後継者と目していたのであろう。これ以降、名門出身の俊秀として将来を嘱望される。七歳から初等教育が始まるが、一般の学校には通わず、もっぱら家庭教師について自宅で学んだ。

すでに前章でふれたように、マルクスの思想形成に直接の、そして最大の影響を与えたのは、師ルスティクスを通じて知ることになったエピクテトスの書物であった。

エピクテトスは、古代ギリシア時代の人ではない。マルクス・アウレリウス、の子供の頃まで生きていた、ローマの同時代人である。彼は、後半生を、私塾を開き、職業教師として、生きた。弟子の一人、フラウィオス・アリアノスが、

師の言行をその語調までも含めて忠実に筆録することを試みた。

それらが、現在残っている、彼の著作とされている、「語録」や「提要」は、それらを元に編纂されたもの、ということだ(翻訳としては、

世界の名著 (14) キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス (中公バックス)

世界の名著 (14) キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス (中公バックス)

に抄訳がある)。
私は、もし、
西欧思想を「象徴」する一冊
を選ぶならば、これだと思うわけである(もちろん、ここには、前半の議論と関係していて、あくまで、「日本」の思想の話であることを、忘れてはいけない)。
マルクス・アウレリウス、の「自省録」は、ほとんど、このエピクテトスの、口パク、と言っていいであろう(もちろん、そうであったとしても、この「自省録」というものの、異様さは、変わらないのだが)。
なぜ、この、エピクテトスという、本場古代ギリシアから、はるかに、時代を下る、ローマ時代の、ただの、一教師の、ストア的な言説が、それほど、重要な意味があると考えるのか。
例えば、エピクテトスの思想は、いきなり、ほぼ、西洋思想の「定義」とまで言っていいような、ストア的理念の、彼による、整理、から始まる。

およそ存在するもののうちには、「われわれの権内にある」ものと「権内にない」ものとがある。判断(hypolepsis)、意欲(horme)、欲望(orexis)、忌避(ekklisis)、一言でいえばおよそわれわれの活動(erga)はわれわれの権内にあるが、身体・財産・評判・官職など、およそわれわれの活動でないものは権内にない。そしてわれわれの権内にあるものは本性上自由であり、妨げられず、邪魔されないものであるが、われわれの権内にないものは脆く、隷属的で、妨げられやすく、自分のものにはならない。そこで次のことを記憶しておくがよい。もし本性上隷属的なものを自由なものと思い、自分のものでないものを自分のものと思うならば、君は邪魔され、悲しみ、不安にさせられ、また神々や人々を非難することになるだろう。だがもし君のものだけを君のものであると思い、自分のものでないものを、事実そうであるように、自分のものでないと思うならば、誰も君に決して強制はしないだろう。誰も君を妨げないだろう。君は誰をも非難せず、誰をも咎めたりしないだろう。君はな何一ついやいやながらすることはなく、誰も君に害を加えず、君は敵を持たないだろう。けだし何も害を受けないだろうから。
そこですべて「不愉快な心象」(phantasia tracheia)に対しては、直ちに次のように言うよう訓練せよ。「おまえは心象だ、そしてその見せかけはまるで違っている」と。それから、それを君の持っている基準(canon)で、つまりそれがわれわれの権内にあるものに関係しているか否か、調べたり吟味したりするがよい。そうすれば「私には何の関係もない」という回答が手元にある。
エピクテトス『提要』一)

『提要』の冒頭に置かれたこの長い章、いきなりエピクテトスの思想的核心に迫る。「われわれの権内にある / なし」(epi hemin)とは「自由にできる」「裁量の範囲」「如意 / 不如意」とも訳される概念で、行為に際しての選択(prohairesis)とも密接に関係する(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)。エピクテトスにとって実践理性の課題は、まず何よりもこの境界を正確に見切ることにある。第二に、われわれの欲求や選択の対象を厳密にこの範囲内に限定することが重要である。日常生活でわれわれの欲求は、いわば手当たり次第に目先の対象へと向けられる。だが欲求がこの裁量の範囲を越境することで破綻や蹉跌が生じ、葛藤や心理的な混乱が生じてくるのだ。こうした冷静な欲求の自己統御によって、不安や悲しみから脱却した真に「自由」な境地に至ろうとするのがエピクテトスの基本戦略である。そして第三に、こうした安定した自我の確立によって、周囲の人々への過剰な依存を脱却して、摩擦のない平和で円滑な対人関係を築くことを目指している。

もちろん、この、観想的な姿は、我々になじんできた姿を思わせる。仏教における、瞑想にしてもそうだし、儒教における、賢者の境地にも、近い
(そして、なにより、ここで、付け加えておかなければならないのは、その、日本における、「奇跡的」な邂逅、清沢満之、についてであろう(清沢満之、が重要なことは、今さら、言うまでもない(そんなこと、一度も書いたことないのにね))。

現代語訳 清沢満之語録 (岩波現代文庫)

現代語訳 清沢満之語録 (岩波現代文庫)

そして、その彼を近年、この日本において、積極的に紹介したのが、あの、「暴力のオントロギー」を書き、日本の現代思想の一翼を担った、故・今村仁司、であった。

清沢満之の思想

清沢満之の思想

その事実を、強調しすぎることはないのであろう)。
しかし、そういうこと以上に、重要なことは、一体、このような彼の生き方を、何が「強いて」いるのか、なのである。何が、エピクテトスに、このようなことを話させているのか。

一般にストア派は、開祖ゼノン以来、プラトンを超えて(史的)ソクラテスに回帰しようとする志向をもつが、特にエピクテトスには正統的ストア派の系譜に加えて、ソクラテスとシノペのディオゲネスに対する思慕の念が強い。それは彼らが広義の教師でありながら、同時にそれを実践した生きた模範だったからである。

教師としてある、ということにおいて、何より重要なことは、その理念を「実践」したとされる、「例」、の選択である。
エピクテトスは、確かに、ストア的な教説を行う教師ではあったが、ストア派にとっての、ソクラテスがどういう存在であったか、を考えるとき、結局のところ、エピクテトスは、ソクラテスディオゲネスの二人を、師と仰ぎ、彼らの弟子として生きる、そのこと「だけ」しか言っていないということが分かる。彼は「そのこと」にしか興味がないのだ。
もう、お分かりであろう。
マルクス・アウレリウス、は、皇帝では「なかった」のである。
彼は、死ぬまで、先生の教えを忠実に守る、ことを生きがい、とした、奴隷の出自のエピクテトスの「弟子」だったのだ。