ゴーストタウン / ワンダーランド

自民党は、まさに、椎名林檎が言ったように、「一度栄えし者でも必ずや衰えゆく」、そんな存在に、なり果ててしまった(そういえば、選挙前に、なんか、どーでもいい、表彰をしてましたね)。
あの、河野さんの、ヒステリックな、罵倒には、ずいぶんと評価があるようだ。しかし、そもそも、そういうことを言っている人は、こういうものを、公衆の面前でやるべきでない、とは考えないのだろうか。
もちろん、そういう意味でも、自民党の今の醜態は、ひどいものなのだろう。選挙の一票が平等であるように、たとえ、当選回数が何回だろうと、そのときそのときの、一票による当選は、平等なのである。当選回数の多さで、いばっていた、自民党のビックネームは、テレビ番組で、いっちょまえに、「党内政治」をうんぬんしていた姿の「醜さ」は、こと、こういう事態になって、よくわかる、というものであろう。政治の経験など、ほぼないに等しい、そんな民主党新人立候補者を前に、完全な接戦で、ちょっとの差だけで、なんとか命脈を保った、自民党「大物」。命がつながったなら、まだ、まし、である。そんな、ぺーぺー、に大敗をくらった「くせ」に、比例で「拾ってもらう」。有望な新人を、これからの将来性を考えて、比例で拾い上げる、というのなら、政党としての、戦略としてはありえるだろうが、、お前、何年、政治家で飯を食ってきたんだ。そこまでして、政治家生命をつないだ、お前のどこに、「正当性」があるというんだ。
それでも、あい変わらず、先輩風をふかして、ふんぞりかえって、裸の王様、きどりですか。
自民党の、まったくだめだった醜態は、民主党が、完全な「左翼」であると、プロパガンダ、したことであった。
我々は、民主党が「もう一つの自民党」であることを知っている。自民党だって、そんなことはよく分かっていながら、「自分たちこそ真の保守」である、と、叫ばずにいられなかった。そんな自民党の姿は、国民にどう見えたか。自分がなんであって、相手がなんであるか、これは、他人が感じ受け止めることである。恐らく、自民党がそうやって、「自分たちこそ本当の保守だ」と、選挙そっちのけで、叫ばずにいられなかったのは、よほど、自分たちのその「保守政党性」に自信がなかったから、なのであろう。
もしかしたら、真の「保守政党」は、民主党、なのではないか。
そんな不安に堪えず、かられ続けずにはいられなかった、自民党は、選挙期間の、最初から最後まで、国民に自民党へ投票してもらうための訴えを行うことがなかった。彼らがやっていたことは、ただただ、「自分こそ保守だ」と認めてくれ、という、悲痛なまでに憐れな、叫び、だけだった。
しかし、言うまでもないことだが、自分で自分を本当にそういう存在であるのかに、不安をもっている人が、どんなにヒステリックに、「そうなんだ」と叫ぼうと、人にその訴えが届くことはないだろう。
自民党がやるべきことは、お互い「保守政党」として、どちらが、優れた政策を提言できるか、を競うことであったわけだ。
ここ、何ヶ月は、左派的な、野党出自の人たちによる、はねあがり、によって、いさましいことが多く、与党から発言され続けるであろう。
社民党が言うような、「社会主義」的な平等政策は、むしろ、その彼らの「恣意的」に引かれる線によって、ある種の、権力を生むことになる。貧困が問題なら、そのための施策を施せばいい。しかし、そうでない、恣意的な線、は、彼らが批判したのと同じような、もう一つの裁量行政となる。気付いたときには、自分たちにこそ、恐しいまでの、意味不明の、裁量というパワーに直面していることに、気付くことになるだろう。
たとえば、民主党には、「自民党以上に」自民党な人たちが、手ぐすねをひいて、自分たちの出番を待っている。族議員は、「あらゆる意味」において、あらゆる政治勢力の中に存在する。
しかし、いずれにしろ、自民党がこれほどまでに負けた理由は、なんのことはない。景気が悪い、から、それ以外にない。いや、どんなに「日本の」景気がよくなっても、その恩恵が庶民に回らない、この構造に、いやというほど、国民が気付いたから、である。
では、かたや、新しく与党になった、この「革命」政党(これだけ、長い間の、一党独裁が終わったのだ。どうして、これを、革命と呼ばないで、いられようか)は、この日本の産業の衰退ぶりに、なんらかの、処方箋をもっているのか。
この、日本全土を覆う、不況の波は、日本こそ、実は、今までの、東京にとっての、地方、というような、世界の主要新興 BRICs 都市にとっての、「地方」として、日本が位置付けられようとしているのではないか。おそらく、この日本の、あらゆる地域での、いや、この国家まるごとの「ゴーストタウン化」は確実に進んでいて、見た目にもはっきりする時期こそ、もう目の前なのであろう。
そもそも、産業構造の変化など、過去までの、輸出中心の製造業で外貨を稼いできた、この国の、ビジネス・モデルは、この21世紀に耐えられるような、シロモノなのであろうか。
そんな状況に、与党民主党は、まったく、無関心のようである。彼ら、優等生の関心は、CO2 をこの国から、出さないようにすることしか、頭にないようで、昨晩、近いうちに、そんな政策など不要なまでに、日本の工業部門の、まるで、夜逃げのように、ゴーストタウンから、消えていく姿を、CO2 削減には、これ幸い、だと、ほすそ笑む姿が、目に浮ぶようである。
民主党と、その回りに集まる、金魚のフン、たちの、まるで、学級委員、の生徒会の子供たちのような、このはしゃぎぶりは、「一度栄えし者でも必ずや衰えゆく」、そのこと、自民党の衰退が、日本「そのもの」の衰退、と同値である、ということを理解するところまで、頭(おつむ)が回らないようである。
日本の多くの製造業の大手大企業が、製造業派遣原則禁止を受けて、本格的に海外移転を考えている、という。これは、前も言ったことであるが、もし、それを本当にできるのであれば、どうぞ、おやりになったらいいのではないですかね。こういう企業は、日本に不要なのである。この日本で、本気で勝負する気がない連中が、片手間でやれるほど、この国の国民の嗜好は甘くない。頼むから、本社ごと、この国から、出ていってくれ、という話なのだ。製造業派遣、が、この日本に、どうしても、必要だと思うのであれば、最後まで、その必要性を、この国内の政治の場で主張されればいい。ところが、そういう企業に限って、「今でさえ」多くの生産拠点を、海外に移している。最初から、この日本で生き、この日本に尽すことなど、まったく考えない、もーかりゃ、なんでもいい、どこでもいい連中なのだ。今、この日本に本社を置いていることなど、そうすることで、この国の政治の旨みを手放さずにすむ、くらいの理由でしかない。本気で、そのことを、「ありがたく思え」とさえ考えているというわけだ。そりゃあ、そんなことを言ってれば、株主の受けもいいのでしょう。しかし、なんでこんな企業のご機嫌を取るために、彼らの、いいとこどり、を忍従する必要があるというのだ。
いずれにしろ、政治交代の、いさましさ、とは正反対に、この国の輸出を主体とした、
太平洋ベルト地帯
を中心とした、産業構造の急速な衰退は、目にみえている。
日本の、「中世暗黒時代」、は、まだ始まったばかり、なのでである。
さて、酒井さん、のあの記者会見は、ずいぶんと、異様な光景として、受け取られたようである。
夫の方は、すべては自分の責任の責任だった、と、彼女は何も悪くない、と頭を下げ、彼女の方は、その罪の重さに、涙する、というわけだ。
いつの時代でも、共同体を活性化するのは、トリックスターであり、貴種流離譚、であるというわけだ(その姿は、これからの、永遠(とわ)にまで続くかと思わせるような、日本の暗黒時代のこの始まりを、暗示しているかのように、不吉な予兆として、写ってみえたりする、ということだ)。
一つだけ、はっきりしていることは、大人は人前で泣かない、ということだ。それは、子供の役割である。実際、彼女の話した内容は、まるで、中学生が、万引して、警察に補導され、親に引き受けにくるまで、ひたすら、謝っている姿と、変わらない。
大人とは、そもそも、「謝らない」のである。
なぜか。謝るということは、罪を認める、ということなのだから、なんらかの代償を求められることを意味する。しかし、一方的に代償の対価をつりあげられ続ければ、それは、フェアでない、となる。だとするなら、最初から、お互いが、納得できる場所に落とす、しかない。そもそも、大人になる、ということが、自分の家族をもつことと考えるなら、自分が罪を認めるかどうか、以前に、家族の将来の安定のために、どう行動するかしかないことは、自明であろう。
しかし、そういったことは、多くの人にとってそうであるように、どーでもいい話なのだ。多くの国民は、このパロディに辟易している。罪とは、本来、他者に損害を与えることのはずである。もし、本当に、自分の欲望のため「のみ」の理由で、手を出したなら、勝手に止めたきゃ止めればいい。こういう、だれも損害を受けていない、わいせつ罪、と同列のものは、ときどき、国家が自分達の存在を知らしめるためにおこなう、デモンストレーション、のようなものなのであろう。本気でこのことが問題だと思うなら、こんな、一罰百戒こそやめるべきで、フェアネスの観点からも、一人残らず、しょっぴけばいい。しかし、そんなことはやらないのである。やる気なんてないのだ。
もちろん、麻薬を、例えば、拉致監禁した相手に、無理矢理、何度も、強制的に注射することで、禁断症状を起こさせ、その誘惑から、個人の意志に反した行動をさせる、というような事件が、起きたとき、こういったものの怖さを、あらためて考えることになるのかもしれません(オウムが、ちょっとやろうとしたことですね)。しかし、よく考えれば、こんな薬などという、処方の難しいものをわざわざ使わなくても、長い人類の拷問の歴史は、恐しい話にみちているわけで、やろうと思うなら、鬼畜というのは、なんだってやる連中なのである。そもそもの問題は、その、鬼畜の鬼畜性なのであって、道具うんぬんが問題なのは、むしろ、こういったものへの知識、啓蒙の足りなさ、の方なのであろう。
日曜の夕方の民法のニュースで、元地検の、河上とかいう、じいさんが、彼女が、こんなに簡単に保釈されることの影響の方が、おそろしい、と言っていた(むしろ、恐しいのは、こうやって簡単に、「他人の自由」を奪うことに、なんの異常さも感じない、この、おっさんの、感性の方であることには、どうも思いがおよばないようだ)。
芸能リポーターふぜいが、まだ、社会復帰は早すぎるだとか、反省が足りない、だとか、自分の日頃の不摂生を省みることもなく、おこがましい、も、はなはだしい話であろう(お前ごときが上から目線とは、10年早いんだよ)。余計なお世話なのである。まず、そういう不適切発言を、こういう公的場所で、不連続に繰り返してきた、お前自身の方こそ、始末書もので、とっとと、窓際でも下がってろ、という話なわけだ。
しかし、そういったもろもろについて、私は興味があるわけではない。彼女のことなど、どーでもいい。
ただ、彼女が、あの会見で、芸能界をやめるということを、一言もにおわせなかったことは、おっ、と思わせるものがあった。
よく考えれば、彼女は、徹底的に逃亡し、証拠隠滅を計り、かなり、悪質なまでに、罪を軽くする手立てを尽したと言っていい。しかし、これも、もう一度、この世界で「やりたい」という意志の現れであるとみるなら、ずいぶんと違った印象となる。
もし、過去の彼女の「作品」に、彼女自身が、なんの誇りももっておらず、今までの、自分の活動に、ほとほと、いやけがさしていたなら、ここまでの、隠蔽工作を行うであろうか。たんに、子供と余生を送りたいだけなら、こんな面倒な人間関係、捨ててしまえばいい。
サン・ミュージックといえば、岡田有希子、の自殺を思い出さない人はいないであろう。この会社は、こうやって、今までも、多くの幼い子供たちを、受け入れて育ててきた。よく考えれば、30過ぎた、いい大人が、なにやろーがどーでもいー話である。しかし、この会社にとっては、これは、彼女一人の問題ではないのだ。彼らにとって、彼女の更生は、必須の命題である。なぜなら、その後に続く多くの後輩の問題でもあるわけであるから。
前に、『ガラスの仮面』の紹介をしたが、映画やドラマの世界というのは、どこか、異常なまでの、なんらかを、表現しようという、特異な存在に支えられた世界である。こういった、「芸術活動」に、なんの誇りも感じられない連中は、勝手に、一儲けして、去っていけばいい。そこに、なんらかの意味を感じているからこそ、続けているのであろう。
芸能界は、なんといっても、少ない村、である。こうやって、プライバシーを半分売るように生きている人は、最初から、少ない。常に人材不足の世界だと言っていい。
その中で、このように、(半分ではあるが)これからも続ける意志を示したこと、そのことこそ、多くの人に興味を残すのである(あとは、需要と供給の関係でしかない)。