田中康二『本居宣長の大東亜戦争』

今さら、言うまでもないことであるが、国学と、水戸学、は、まったく「違った」ものである。
本居宣長、は、漢意、を批判したのであり、それを受けて、後期水戸学は、宣長の、皇室を無上のものとする議論に、一目を置きながら、儒教徳目、への、無理解を批判する。
よく考えてみると、宣長の、漢意批判、とは、恐しいまでの、ラディカルさをもっていたのである。あらゆる、ところに、「漢意」の臭いをかぎつける、宣長にとって、やまと心とは、「心のおもむくまま」に生きること、だと言うのだから。当然、そこにおいて、社会の、さまざまな、とりきめ事、忠、から、孝、からなにから、そんなものは、「古の日本には存在しなかった、漢意」だと言うのであろう。いったい、宣長という人は、どんな人間観、をもっていたのか、と、すえ恐しくならないだろうか。
ただ、そんな宣長も、言わば、「分かりやすい」、信念に生きることを理解する。それが、宣長における、天皇観、となる。

抑天地は一枚にして、隔なければ、高天原は、万国一同に戴くところの高天原にして、天照大御神は、その天をしろしめす御神にてましませば、宇宙のあひだにならぶものなく、とこしなへに天地の限をあまねく照しましまして、四海万国此御徳光を蒙らずといふことなく、何れの国とても、此、大御神の御陰にもれては、一日片時も立ことあたはず。世中に至て尊くありがたきは、此、大御神なり。
本居宣長『玉くしげ』)

この世に太陽の御陰を蒙らない者はいない。太陽は天照大御神である。それゆえ、天照大御神が最も尊い神であるという論理である。

宣長が、子供の頃から、さかんに、伊勢神宮、を参拝していたことは有名である。はて、宣長仏教徒ではなかったのか(少なくとも、医者として、檀家制度の、イエ的な血族的しがらみの中で生きていた人のはずだ)。
それにしても、奇妙なロジック、に思えないだろうか。彼がなぜ、天皇を無上の、尊き、お方と考えるか。それは、今生天皇が、アマテラス、の子孫だから、だ、というのだ。
つまり、「先に」、太陽信仰、があるのである。
太陽こそ、なによりも、この世で重要なものはない。太陽の恩恵に浴しているから、太陽の功徳のおこぼれにあずかれているから、だからこそ、自分たちがこうして、今、あらしめられている。
そんな認識の「おまけ」のように、今生天皇、は説明される程度の存在なんだ、って言うんですね。つまり、アマテラスの「子孫」。どういう意味なんですかね。なんだかわからないけど、なんかの、枝が分かれて、それが、天皇の血筋で...。
結局、天皇家は、アマテラス、となんらかの関係がある存在と、明示されていて...。でもその、関係とやらは、結局、なんなのかは、よくわかんない、けむにまかれたような、説明があるだけで...。
ようするに、なんだか、意味不明の説明で、よくわかんねー、んだ。
太陽(神)。
それだけで、いーんじゃない。
世界中、どこにだって、太陽信仰、なら、いくらでもあるでしょう。
もー、アマテラス、だとか、天皇、だとか、いろいろ、解釈のありそうな、そういう「中途半端な」アイデアは、全部脱ぎ去って、「太陽信仰」一本で行く、っていうのはどうですかね。
宣長の認識を突き詰めると、そういう所も、近いんじゃないですかね。
ちょっと、話が、脱線してしまった。ようするに、国学と水戸学は、本来は、まったく違うはずなのに、「ある側面」において、非常に近い存在と考えられた。

そのことを吉田松蔭は次のように述べている。

扨学問の節目を糺し候事が誠に肝要にて、朱子学ぢやのと一偏の事にては何の役にも立ち申さず、尊王攘夷の四字を眼目として、何人の書にても何人の学にても其の長ずる所を取る様にすべし。本居学と水戸学とは頗る不同あれども、尊攘の二字はいづれも同じ。

宣長の、日本人優越主義は、結局のところ、文献学主義と言ってもいい。といいますか、古事記、を研究していて、この、古事記、しか見ていない。古事記、には、天皇が、太陽神、の子供だと言うんだから、その天皇が統治されている、この、日本、はすっげーじゃねーか。
はて、外国? 外国、のことなんて、古事記、に書いてねーよ。しるか、ぼけ。
すばらしいことかどうかは、この、古事記、に書いてあるか、どうかにかかってくる。古事記に、アメリカ人は、優秀だと書いてあれば、アメリカ人、さまさま、と評価したかもしれないけど、あいにく、アメリカ人のことは、古事記に書いてなかったわー。ごめんね。
価値とは、この国にあるもの、この国によるものだけを言うのであって、外国は、この国の価値の前では、ひれふせっつってんだろーが、ぼけが。この国が、価値ある、という意味は、あくまで、「天皇」だけが、価値、そのもの、ということ(宣長で言えば、太陽(神)「だけ」が、その価値の源泉。その他の差異など、ガン無視トーゼン)。あと、その他大勢の「天皇」にお使えする、臣民(奴隷)。それでも、その天皇のために、子孫が、命を投げ出したか、反逆者となったかで、日本人の価値といっても、国賊という反価値を含めて、それなりに、「色」はある。
どーも、宣長にとっては、太陽は、日本にしか、ふりそそがない、ようである。宣長の太陽は、日本を、あまねす照すことしか、関心がない、ということらしー。
まあ、同じような、はしたない説明を、水戸学、にまで行うつもりはねーけど(こっちは、儒教ですから、分かりやすいですね)、いずれにしろ、似てるのは、尊皇攘夷、その一点「だけ」なんですよね。ただ、その後の、明治初期以降の、国学は、より、朱子学に近づいた説明をするようになる。
つまり、である。
その頃から、本居宣長、が、本当は「何を」主張したのか、にだれも関心がなくなる。というより、そもそも、本居宣長、のことを誰も知らなかった。知っていたのは、国学がどうの、水戸学がどうの、と古くさい、昔の学び事を、この文明開化の時代に、いつまでも、うんぬんしていた連中くらい。
しかし、本居宣長、という、あまりのビックネームを、どうして、無視できようか。なんてったって、これだけ、早い時期に、これだけの、ビックマウスだ。こんな、逸材、ほかにいるはずない。しかも、古事記、を「発見」した人だぜ。もう、教祖様並扱いするっきゃねーだろ。
大衆が、宣長を知るきっかけとなったのは、一つは、「松坂の出会い」、が小学校の教科書で必ず掲載されることによってであった。しかし、宣長は「俗物」である。彼が死ぬまで、愛した、歌の世界は、宣長が属した、歌サークルの、友達たちと、わいわいがやがや、やれる、当時の「はやりもの」である。賀茂馬淵、の、万葉集主義を、最後まで、ガン無視する。この程度の出会いであることは、教科書には、書かれることなく、そういう分かったようなことを、テストの答案に書けば、ペケペケ(学校の成績なんて、このテード)。
しかし、もっとヒッデー誤読が、もう一つの、「敷島の桜」だ。武士道とは、死ぬことだ、って、桜が老いを醜く、残してまで、幹に、いつまでのくっついていないで、最も美しいときに散ってしまう姿だって。
こんなこと、宣長が詠むわけ「ねーだろ」。
山桜って、ぽっと、かわいらしく、ちっちゃく、ひかえめに咲く、あれ、ですよ。山桜、そんなに、ごーかい、に散りません。ていうか、「散る」なんて、この歌のどこにも、でてこねーじゃねーか。
こういう、ひかえめだけど、内に豊かな感情を秘めた「山」桜、こそが、「やまと」心、なんでしょ。漢意と違って。

本居宣長の大東亜戦争

本居宣長の大東亜戦争