石川公彌子『<弱さ>と<抵抗>の近代国学』

最近は、けっこう、チャレンジング、な、読書をしてきたものだ。
つい最近も、本居宣長、にチャレンジングに、アタックしたものだ(なんにもしてないけど)。
以前も書いたが、いずれにしろ、国学は、宣長、篤胤、以降、大国隆正のような、ほとんど儒教と差がなくなっていく方向に向かう。それは、実際に、日本の歴史は、そうやって儒教的な徳目を受容してきたのだから、当然のことなのであろう。そして、この部分の国学こそが、まさに、「皇国史観」を構成する一部として、機能していくわけである。
しかし、「宣長 - 篤胤」ラインの、そうじゃない系譜、(私が最近こだわっている)彼らが、「やまとごころ」「もののあはれ」として、見出したような、そういった部分の国学を、その後、継承していったような、そんな人たちはいないのだろうか?
掲題の著者は、それこそ、さまざまな意味で「問題の多い」とされる、以下の、三人の日本の言論人、柳田國男保田與重郎折口信夫。彼らを、そういう存在をして、この本で、フューチャーする。
もちろん、日本を「代表」する学者こそ、柳田國男、であろう。
私は、今だに、日本の学者とか言っている連中がよくわからない。お前たち、のやってること、なんで、「柳田民俗学」って、名乗らないんじゃ。なんだ、その外国譲りの学問ぶりっこ、は(口を開けば、柳田の、口ぱく、じゃねーか)。
って、こういうのはどうですかね。
柳田國男は、よく言われるように、親子の関係(大家族)や、地域の人間関係(若衆組、娘組)、を中心に、家職を中心とした、古典的なイエ概念を重視する。

百姓には学問は不要であるとか、商人があまり物知りになるのもよくないという意見をたんなる「頑固親父又は分らず屋の標本」ではないと指摘する。なぜなら、これらの意見はイエを大切にするために個人の幸福を犠牲にしたものでなく、そもそも当人の立場からみても、そのようなことで職業を変えることはけっして安全な判断ではなかったからである(日本の祭、1942, 13:365)。

柳田は日本人にとっての先祖の考察から、愛郷心(家郷)の立場からの、民主主義の重要さの強調、いずれにしろ、その「伝統」的な日本を、篤胤民俗学の延長として、見出していった、ということなのかもしれない。
篤胤の国学は、さまざまな地方の民間伝承の収集に向かう契機をもっていた。ここから、柳田民俗学は、完全につながっていると考えるべきなのであろう(柳田民俗学、はまた別の機会にでも)。
次に著者が、とりあげる、人物こそ、戦中の最大の問題人物、保田與重郎
彼は、日本浪漫派、という文学グループとして、戦中も、多くの執筆活動を続け、多くの日本人兵士が、彼の著作を、懐にもって、戦地に向かったといわれる。
しかし、その彼自身が、どこまで、この戦争に礼賛的だったかと考えると、その表現は微妙になる。

我国はまづ、世界に先んじて十九世紀の一切のイデオロギーから訣別する。[......]私の漠然とした考へ方は戦場の雰囲気によつてたしかめられる思ひがした。この日本の転向の萌芽を象徴するものは『蒙疆』である。(蒙疆、1938, 16:88-89)

旧知識がわきまへもなく、戦後文化の再建に参与しようと想ふ前に、戦場の現実、その若者の感覚と発想と倫理の現実を考へるべきである。文化再現の目下の任務は[......]日支一丸とする精神文化の建設である。[......]彼ら[日本の若者]が今日本の精神史を動かして、世界史的規模に変革しようとしてゐるのである。[......]蒙疆にゆけば、そこはすべて若者の世界である。(16:88-89)

保田は北京を視察し、そこが異民族の集合と化していることに失望し、蒙疆(内モンゴル)の「十九世紀の一切のイデオロギー」すなわちヨーロッパ近代主義との訣別に希望を抱く。なぜなら、蒙疆は日本の転向の萌芽を象徴するものであったからである。そして、若者たちが日本、ひいてはアジアの新時代の精神文化の建設を担うと主張したのである。

ここで注意しなければならないのは、これが「文化」として語られている意味なのでしょう。彼は、明確に、宣長の「もののあはれ」を継承する、国学、の徒として、自己規定をする。そんな彼が、戦争を礼賛するはずがないのである(また、実際、折口信夫、とも交際のあったような人なわけですからね)。

皇軍の本質」とは「偉大な敗北」であり、「悲劇」を厭わずに甘受する、むしろそれを望む精神であった。保田は「戦争は大悲劇であり、大沈痛であり、さらに大慈悲である」と主張し(大東亜文化論の根抵精神、1942, 22:68)、戦争の本質を「人を死なし殺す」ことであると看破している(有馬少将の遺書、1944, 22:25)。それゆえ、本心においては反対してやまない戦争に身を投じ、戦歿することが「偉大な敗北」であり「悲劇」となる。これは、後鳥羽院から光平にいたる国文学史に保田が見出した美学にほかならない。
さらに保田は、この美意識を発展させる。

我々の秀れた武士は、自を殺すことに極めて果敢であった。[......]一等感銘深かつたことは、人より秀れた武士が、身を先にして討死することであつた。[......]人は、その自殺的討死に於て、最も死の瞬間に、苛酷にまで彼の価値を燃焼するものかもしれない。しかし日本の礼法として象徴的に価値づけられたその自殺は、世界の進歩と沈滞の打破への、唯一のみちだつたのである。[......]個人的存在への責任として敢行されたものでなくして、歴史的価値への責任の遂行と感じられたものであらう。[......]自殺は最後闘争でもあつた。又復讐でもあつた。それは政治上の敵を精神的に禁獄する唯一の絶対的手段であつた。(現代日本に缺如せるもの、1939, 12:335-336)

たとえば、こういった彼の態度は、ドイツ・ロマン派、そのものと言っていいでしょう。ここで、彼らは、その「人より秀れた」人だからこそ、あえて選ぶ、「自殺」(実際は、他殺、でありながら、それを無視した上で)の、その「意味」にこだわらずにいられないわけですね。その神秘主義は、たとえば、ストア派にとって、あくまで、人生の晩年において、あくまでも、完全に「個人的」な整理、観照的な扱いでしかなかった、自殺の記述との、あまりの違いに、気付くわけですね。
戦争に批判的でありながら、なおかつ、そこで起きる、さまざまな感情の機微に、よりそって思考せずにいられない。そんな、彼の文章は、どこまでも、なにか、独り言をつぶやいている、そんな姿である。
著者も指摘するように、彼は、柳田の言うような、イエや村共同体のような、コミュニティにベースをおく、思想家、というよりも、都会で、個、として、孤立していく、その中でこその、倫理を考えた、思想家、だと思うんですね(若い頃、マルクス的な、私有財産の廃止、に傾倒した、というのもそうでしょう)。そういう意味で、彼の、時局との、スリリングな距離のとり方は、非常に、個人的なものを感じるわけです(最近の、都会の孤独な若者の右傾化にさえ、どこか通じるものはあるのでしょう)。
そして、掲題の著者が、最も、共感をもって、詳述する存在こそ、「天才」折口信夫、である。
しかし、その意味するところは、一言で言って、「すごい」。
これほど、折口信夫、が重要であること、なんですね。その意味をこそ、よく考えた方がいい。
著者は、折口の特徴として、柳田との違い、にこそ、注目する。

柳田は折口、石田英一郎との鼎談において、祖霊信仰を認めない折口に対して、「盆に帰つてくるものを今でお我々は先祖だと考へてゐる。折口さんなどの常世神は正月のはじめに来る。[......]あれもやはり祖神であつたやうです」(日本人の神と霊魂の観念そのほか、別巻3:555-556)と不快感をあらわにしている。柳田の姿勢に対し、折口は「神道の神学ができなくては、宗教でないね。柳田先生のような方が、その体系を立てなければいけないのだが、先生には、宗教的情熱がない」と発言している。

柳田が、あくまで、イエ、を中心とし、その先祖信仰を、村共同体倫理の、実践を中心に彼の、世界観としたのに対して、折口は、自らの出自も関係したのだろう、養子的な生き方を、中心に置くような、そういう、親密圏、コミュニティ、を想定するところから、始める。そういう意味では、篤胤的な、そういう側面を明確に、継ぐ、学統と言っていいであろう。

そもそも折口は、信仰における女性の役割を高く評価している。「国家意識」が成立した頃から、神及び現神(アキツカミ)に仕える下級巫女であった采女を通じて信仰の習合がはかられた(国文学の発生、第二稿、1927, 1:l79-80)しかも、宮廷の女性たちは口で「みこと」を伝え「みこともち」としての役割を果たしており、のちに、「みこと」を文書のかたちに書き取るようになったのが、内待宣・女房宣であるという(神道に現れた民族論理、1929, 3:153)。
この巫女論の背景には、明治以降の巫女の排除が存在する。盲人のギルドである当道座が太政官布告等によって解体され、漂白の芸人・宗教者がまず駆逐された。ついで文明開化期には迷信、民間習俗、慣行、行事が禁止され、その一環として巫女等が排除・追放され巫女儀礼が禁止された。すなわち、祈祷が刑事事件の対象となったのである。

戦中は、神がかっていた、とか言うが、逆なのですね。戦中こそ、さまざまな、民間神道が、不純であるという理由で徹底的に、抹殺されていたわけです。巫女という、卑弥呼から続く、最も重要な存在から、抹消されていたわけですね。

これに対し、折口によれば、そもそも武士道徳は「団体の道徳」すなわち団体において共有された道徳であり、団体を離れれば道徳は存在しない(無頼の徒の芸術、1936,21:38)。武士道徳は、武士という特定の「団体」において成立する道徳にすぎず、普遍的道徳ではない。集団の規制が存在しなければ、人間は「道念」を忘却してしまうのである。
日本人は集団の規制がなくしては「道念」を内面化できないという認識から、折口は「日本では、昔からよいときにも悪いときにも、全体というものが考えられず、自分らの生活を守るために戦争をするのに、天子さまのために戦うのだと言うて、責任を天子にもってゆく。[......]日本人の道義観は、その点から見ると幼稚である。このまま進んでいったら、天子はご迷惑である。道義学から、この考えだけは排除せねばならぬ。ともかく、誰かを責任者に選んでみたがるのである」(心意伝承、ノート7:203)と、苦言を呈していた。

まさに、丸山眞男に通じる認識ですね。上記の保田と比べると、あまりものこの、そっけなさ、でしょう。しかし、結局のところ、戦後から、ふり返れば、そう言わざるをえないんじゃないでしょうか。戦後世代が、「過去の人たちを今の視点で野蛮視するのは、謬見だ」って言いますけど、それだけに、こういう同世代的に生きた方の実感として、こういう結論となっていることが重要なんですね。

靖国」の思想においては、戦歿者がこく短期間に神になるとされた。だが民間信仰においては、「神となれない人たちの、行くへなき魂の、永遠に浮遊するもの」があると考えられてきたのである。
折口は、一九四三年に靖国神社の招魂式に拝列しており、このときのことを「招魂の御儀に拝して」につづっている。老婆の後姿に着目し、「日本国民の心持ち」としては「此程嬉しくなくてはならぬ程、喜ばなけれなならない時」はないにもかかわらず、「今こそ、人間として永久の別れでございます」と記して、老婆の「深い人生の思ひ」に心を寄せている(招魂の御儀に拝して、943,33:221-222)。したがって、あくまでも「靖国」の思想には違和感を示しているのである。
しかも「郷土の気持ちのままの方々を見まして、実になつかしく思ひました」として、参列者が「郷土」の信仰の立場にいることを指摘している。そして「この招魂法を以て、此度迎へられたみたまは、凡三年近い年月を経た御魂が、今や完全に神様におなりになつた。現在の信仰では、凡此だけの時を経れば、神となられるものと、信ぜられてゐる訣です」と、急ごしらえの信仰への違和感を示している(33:29-220)。

靖国については、つい最近もこだわりましたけど、大嘗祭について、あれだけ、熱く語った、彼が、招魂祭に、これだけ、冷たい。そのことに、日本人自身が、気付くべきなんじゃないですかね。
私が、今、あえて、こういった国学にこだわること。それは、どうも、さまざまな言説、例えば、「自由」だとか「平等」だとか、そういった、西洋からの、借り物、で思考している、さまざまな言説の、「うすっぺらさ」に、なんとも言えない、すえ恐しさを、感じざるをえない、からなんですね。特に、経済学、マネタリズムハイエクの自由の理念、こういったことを強調されるのは結構なんですけど、どうも、空疎なわけです。実は、話している本人たちの方こそ、なにを話してるのか、わかってないんじゃないかと思わずにいられない(少なくとも、本気で伝わってると思ってるんでしょうか。理解しない、国民が、バカで愚弄で、って言ってるだけじゃ、どこかの学者と変わんないでしょ)。
なにかが、違うんじゃないのか。
もっと、自分たちが、語ってきた、そういう思想の延長で、こういうことは、考えなければ、変なんじゃないか。
折口信夫
こういった、彼のような人こそ、戦中と戦後の、日本の思考の「断絶」を、つなぎうる、非常に「重要な」存在なのかもしれません。我々の、この、空疎な、痴呆。ここが、「正しく」つながれるとき、分裂的な精神、世界観、から解放され、一つの連続した、「私」の理解が有機的に「始まる」のでしょう(そんなことを考えさせてくれる本でしたね)。